自由な個が作り出す全体のユーフォリアに向けて ー Wake Up, Girls! FINAL LIVE「想い出のパレード」を前に見下ろす無粋なる論考

 2月24日WUGファイナルツアー千秋楽日、仙台昼夜公演に参加した。昼公演のアンコールMCでは、メンバーから残り1回という現実に心定まらぬ思いが吐露されていた。だから夜公演ではどんな悲しみの感情が溢れ出ることになるのだろうと、ハラハラする思いで迎えたのだが、しかし、最後だからこそ全身全霊をぶつけたWUGちゃんたちのパフォーマンスと、それに応えるワグナーの声援によって、これ以上ないほど熱く楽しく清々しいツアーラストになった。これで恐れることなく3月8日SSAでのファイナルステージ「想い出のパレード」へ向かえると、仙台サンプラザホールを後にしながら、そう強く思った。

 

 そしてこのまま振り返らずに、まっすぐSSAへ向かうのもよいだろう。いや、きっとそのほうがいい。分かっている。

 

 だがSSAを迎える前に、ツアーを通じて見たものを言語化しておく必要も私の中にある。それはツアー全体の空気を全身に浴びてきたままの言葉ではなく、俯瞰した視点からのものだ。それは文字通り「上から目線」であり、内側にいる者にとっては極めて無粋で、人によっては非常に不愉快なものになる。しかしSSAを前に、やはり自分が今いる状況が何なのかを、見下ろして確かめたいのである。

 なので、ストレートな共感を求めてこのブログ記事を開いたワグナー諸氏には、読み進めることをあまりお勧めない。更にいつも以上に長くなる。しかも前置きが馬鹿みたいに長い。そのことも先にお断りしておく。

 

 

 ドイツのハイデルベルクに留学時代のある晴れた夏休みの日、ネッカー川を挟んだ街の対岸からオーデンヴァルト(オーデンの森)のハイキング路を登った。行き先は決まっていた。これは一つの試みだったので、実は答えも予測していた。小一時間、木々の香りに満ちた空気を吸いつつ、汗を拭いながら、ただ無心に登り続ける。そして辿り着いた場所に広がる景色に、私は予測どおり圧倒される感覚を覚えた。そこに広がるのは古代ギリシャの円形競技場の如き野外アリーナである。しかしこれは古代ギリシャやローマの遺跡ではない。たかだか80年前のナチ時代に造られた代物だ。

 かつて19世紀後半のドイツに起こり、20世紀初期に広く広まったワンダーフォーゲル運動は、自然主義を掲げ、森を仲間たちと共に汗を拭って歩き、そこに生まれる一体感を賛美した。共に目的地に辿り着いたときの達成感と一体感は、脆弱で不安な個人を乗り越えた「同胞」という一有機体へと昇華させるのである。しかしワンダーフォーゲルの思想は、ナチズムとも親和性を生み出し、やがてそこに吸収されていく者も多かった。

 オーデンヴァルトの野外アリーナに辿り着き、目の当たりにした圧倒感を抱えて、その瞬間の自分をナチ時代にタイムスリップさせてみる。そこには、同じく汗を拭って辿り着いた多くの人々がアリーナを埋め尽くす光景が広がり、ステージの中央へ颯爽と進み出る指導者の姿が目に浮かぶ。そして拳を振るい上げて熱く叫ぶ彼の演説に、昂揚した人々は一つになって喝采を送るのである。

 

 さて、お前は一体なんの話をしているのだとお思いだろう。まさかWUGちゃんがヒトラーだとでも言いたいのかと、お怒りの方もいるかもしれない。無論そんなことは露とも考えていない。如何なる差別も破壊も口にしていないWUGちゃんがヒトラーなわけがないだろ。愚問だ。

 だが、昂揚と一体感が、全体主義を生み出す原子であるとは考えている。それは野球やサッカーの応援やライブにも見出すことが出来る。これは別にWUGのライブを通じて思いついたことではなく、それ以前からの私の持論だ。つまり私は、最初からこの全体主義的構造に巻き込まれることを分かった上で、ライブに参加していたのである。

 

 アニオタが想像しやすい映像としては、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の人類補完計画のシーンを思い浮かべるといい。初号機を依代とし、ATフィールドを失った人々がLCLの海へと還元され、個を失って一つになっていく。それはカリスマ的指導者を頂点とし、人々が共同体を一つの有機体として構成する細胞の一つとなっていくことと重なる。人類補完計画とは全体主義のことだと私は解釈している。

 デカルト以降、人間の理性による「個人」という概念が確立され、宗教的、職能的社会において良くも悪くも所与の身分の中で生きてきた人々は、個人として自ら考え選択し行動する「自由」を獲得した。だがそれは同時に、安定した所与の身分を失ったことも意味し、寄る辺ない脆弱な個人として、不安と絶望を抱えながら放り出されてしまったことにもなる。それゆえにカリスマが指導する共同体へと自ら自身を委ね、自由を放棄し、ドイツではナチ政権という全体主義国家を生み出した。そのような人々の心理を、社会心理学エーリヒ・フロムは「自由からの逃走」と名付けた。

 だが、肝心のカリスマであるヒトラーは、イアン・カーショーの研究によれば、扇動家としては非凡な才能を持っていたものの、支配者としては自ら決断できない弱い男であった。それゆえ、ヒトラーという虚像の期待を推し量り応えようと「総統のために働く者たち」によって、合法的支配は崩れ、「カリスマ支配」というものが暴走していくのである。

 

 このようなヒトラーとナチズムの話が、WUGのライブにそのまま当てはまるとはもちろん考えていない。ただ大枠として、そのような構造に陥るギリギリのところを、WUGに限らず、多くのライブ現場では、無意識のうちに体感していると思われる。

 

 スポーツでは、ファンの声援によって、奮起したプレイヤーのファインプレイが生み出されることがある。だが、プレイヤーとファンが試合中に直接交わることはなく、プレイヤーは常に全体の依代としてのカリスマ的存在性を維持し、一体感を作る一細胞としてのファンからは独立している。それゆえに時としてカリスマの意向を離れ、「総統のために働く者たち」の暴走が起こる。

 アイドルやロックコンサートでは、曲中のコール、コール&レスポンスを通じて、アーティストとファンが直接交わる一体的空間が作り出される。しかし単発のライブとして見た場合、基本的にはアーティスト側がカリスマ的存在として全体の空気を支配し、主導していくことになる。もちろんアーティスト側がファンの声援に感化されて、パフォーマンスの熱量を更に高めることはあるが、最終的に場を支配するのはアーティスト側だと言ってよい。

 

 さて、ようやくWUGの話に入ろう。

 

 WUGの場合もまた、一公演だけを切り出して見た場合、最終的な場の支配者はWUGちゃんだ。少なくとも全体の依代であることは変わらない。だがWUGのライブは、一公演を単体として容易に切り出すことが出来ない。一公演ごとに強烈な個性は持つものの、それはこれまでに積み重ねられたものによって、その瞬間の独自性が生み出されるからだ。

 他のアーティストのライブをツアーとして体験したことがないので、安易なことは言えないが、そもそもツアーというものは、建前としては、アーティストがその土地土地に出向き、そこだけに集うファンのためにパフォーマンスを見せるものだろう。それゆえに、どの土地でも変わらぬハイクオリティを提供するのがアーティストの役割だとも言える。しかし実際には「ライブ」という言葉の如く生モノで、各公演ごとに違いは生まれる。

 だが少なくともWUGに関しては、ただ単に違いが出るのではなく、公演ごとにライブが成長、あるいは進化する。それは今回のファイナルツアーに限ったことではなく、私が体感する限り、自分が初めて複数会場に参加した2ndツアーからそうであった。ただファイナルツアーに関しては、その進化の濃度(速度というより濃度)がそれ以前の比ではなかった。

 もっとも、そのような強い濃度の高まりは、4thツアーからあったと思う。それは「TUNAGO」というコンセプトを基に、アニメ旧章と新章、自分と故郷(東北)、そしてWUGちゃんとワグナーもつながろうというライブ演出を試みていたからだ。曲「TUNAGO」の振り付けを会場全員でやろうと、前もって見本動画も上げていた。「ワグ・ズーズー」も皆で振りを合わせる曲だが、あれは恐らく彼女たちの考えより先に、スタッフがライブ演出として用意したものだろう(それが悪いというわけではない)。しかし4thでは演出作りに彼女たち自身が多く関わっており、「TUNAGO」はあいちゃん自身が振り付けしたものとしても、彼女たち自身によるワグナーとの主体的なつながりが打ち出されていた。その結果、初日から千秋楽まで、コールやサイリウムの変化を含む統一感の進化が非常に強く感じられたツアーとなった。

 

 そもそも声優ユニットWUGは、山本寛監督の名を全面に掲げた初期アニメが様々な批判や中傷を受ける中、いわば最初から逆境に立たされるスタートを強いられていた。私も作品造りや山本氏の言動には多く批判的意見を持つが、彼が打ち出した作品コンセプトには共感しており、それこそが作品を越えた現在のWUGという現象を生み出す源になったと思っている。そして何より彼女たちが作品の思想を全身で背負っていったため、当初は「ヤマカンのWUG」であったものが、彼の思惑や存在そのものを遥かに越え、「声優ユニットWUG」こそがWUGそのものとなっていった。

 当初のWUGは、山本氏をカリスマとし、声優ユニットWUGは彼の周りを華やかに飾るための巫女のような存在として設置されたとも言えよう。しかし共感よりも反発を招き続けた彼の(敢えていう)独善的すぎる個性は、結果として自らの失権へとつながった。残念ながら彼には扇動家としての才能も足りなかったのである。

 では、声優ユニットWUGは彼の失権の穴埋めのようにカリスマの地位に就いたのかというと、決してそうではない。実は最初から彼女たちが「WUG」という場のカリスマだった。ただ多くの人がそのことに気づいていなかっただけだ。山本氏は確かに仕掛け人ではあったが、彼は丹下社長に徹すべきだったのである。なのに彼は、仕掛け人丹下のまま、絡んできた当初の早坂になろうとしていたように思う。つまり、自分が声優ユニットを含めたWUGというコンテンツを動かせると思っていたのだろう。だが彼自身が作中で描いたように、早坂のほうが次第にユニットWUGに動かされていき、山本氏の手を離れた新章最終回で「アイドル界を変えるのは、Vドルでも僕でも、あなたでもない。」とまで言わしめるのである。

 

 しかしてワグナーは…。デビュー当初まだ「おいもちゃん」だったWUGに原石としての光を感じ、私のように、取り巻く逆境の中でその光を消してはならないと思った者も多かったろう。もちろんそれを「ヤマカンが灯した光」と捉え、支えた者も多かった。だから、初期ワグナーのうち、やがてWUGから離れていった者が多いことも知っている。

 しかしその一方、旧章TVシリーズ終了後、個々の活動をユニット活動と平行して開始したメンバーたちが、少しずつ新たなファンを生み出していった。新たなワグナーにとってWUGは、まず「推し」が所属するユニットであり、作品WUGはそんな彼女たちのデビュー作という位置付けだ。飽くまでツイッターを眺めていての印象だが、声優ユニットWUGを熱心に応援しつつ、作品旧章を好意的に評価し周りに勧めているのは、後からのワグナーに多い気がする。もちろん母数が増えたことで、そういうワグナーのほうが目に入るようになっただけかもしれない。ただ彼らのほうが、旧章TVシリーズからの「古参」が持つスティグマがない分、応援する姿が純粋に見える。

 

 スティグマというなら、実はWUGメンバーたちのほうがはるかに強く刻印されているのかもしれない。デビューした瞬間から「ハイパーリンク」という言葉で自己とキャラクターを結び付けられていたのだから、そうであってもおかしくない。しかし彼女たちは作品を担うことをやめなかった。確かにキャラクターとの軛に悩む姿もあった(かやたんはその点をはっきり語っている)。だが「3つの幸せ」「アイドルである前に人間」といった思想、そして震災復興を支援し、東北に元気を届け、東北の素晴らしさを全国に届けるというミッションに対し、「真摯であること、正直であること、一生懸命であること」であり続けた。そのことは、冷めた客観的視点で眺めたとしても、誰も否定出来ないだろう。結果としてそれが、作中の台詞どおりに「WUGらしさ」となった。結局、作品を巡るいざこざに結びつけてユニットWUGを見下す言説はあったとしても、メンバー自身の言葉や活動を否定的に扱われることはないに等しかったのではないだろうか。

 また、WUGちゃんはラジオやインターネット番組では、お互い子供のように戯れあって、その平和な姿に見る者へと幸せを感じさせる。ワグナーは彼女たちの姿の向こうに幸せのイデアを見ているのだろう。

 お互いまだ知らぬ若い女子が7人も集まれば、誰と誰が気に入らないとか、派閥が出来たりしてもおかしくはない。最初から打ち解けあってたわけではないと、当人たちもよく口にしている。それでも彼女たちは、そこで誰かを遠ざけたり排除しようとはしなかった。メンバーの入れ替わりが当たり前の昨今のアイドル界隈で、WUGは誰一人欠けることなく6年間活動してきた。それは一人ひとりがお互いの違いを認め合う努力をしてきたからだ。そうして彼女たちは、作品を担った活動とも重なり、ワグナーに幸せのイデアを見せる存在として象徴化されていく。そしてそこに、「HOME」のような安心感を見出させるのである。

 

 昨年6月15日、突然声優ユニットWUGの解散が発表された。ワグナーはまさに「HOME」が失われるショックに襲われたはずだ。だが、その発表直後に告知されたファイナルツアーのタイトルが「HOME」であった。そして7月14日の市原公演から始まったツアーは、とてつもない濃度で進化することになったのである。

 解散のショックを抱え、ワグナーたちはどういう心持ちで臨んでよいか分からぬままツアー初日を迎えた。しかし「SHIFT」で始まったライブは、一瞬でそのショックを吹き飛ばす。しかもWUGちゃんたちは客席に降りてきて、会場のボルテージは最初から最高潮に達した。とりわけ関東圏から始まったツアーPart 1は、ほぼファンクラブ会員のみで客席が埋められ、後からワグナー以外が一般チケットで入り込む余地が殆どなかったため、そこは完全にWUGちゃんとワグナーたちだけのホームパーティと化した。WUGちゃんが客席に来ても問題ないと演出側が判断したのは、絶対トラブルが起きないというワグナーへの信頼の証で、実際に最終の仙台までその信頼関係が壊れることはなかったのである。

 進化の象徴としては「Polaris」が挙げられるだろう。ツアー前にこの曲が披露されたのは、昨年4月1日のバスツアーライブと、5月12日のグリーンリーヴスフェス、そして6月の舞台「青葉の軌跡」だけだ。初回のバスツアーライブ(私は不参加)はわぐらぶ会員だけとはいえ、アニメと合わせてペンライトを白くする以外、特別な形はなかっただろう。その後の2回も変化を作り出すイベントではなかった。それがツアーに入ると、いつの間にかまゆしぃのソロパートだけ赤に変えるという流れが出来た。その後はまた白に戻していたのだが、いつの間にか推し色にする形に変化する。更に終盤には観客同士が肩を組んで、会場全体で歌うようになるのである。

 もちろんそこには、きっかけとなった誰かの行動があり、またツイッター上でアイデアを出して賛同を呼びかけるものもあった。しかし最初は飽くまで少数派の動きで、それが公演を繰り返すごとに賛同を得て、広がっていくのである。

 一方、昔からWUGのライブでは、(私はまったく詳しくないのだが)「イエッタイガー」だとか「ジャージャー」だとかいった、どこのアイドル現場でも汎用的に使える定番コールがまったく定着しない。たまに一部の観客がやることはあったが、誰もそれに続かないのだ。つまりWUGのライブでは、使いまわし出来るような応援は望まれず、そこだけにしかない空気が作り出されてきた。

 そして何よりWUGちゃんが、そのように創出され広がっていくワグナーの声援を受け入れ、それに反応し、更に促していったことが進化の濃度を高めた。分かりやすいところでは「ハートライン」のまゆしぃとよっぴーの掛け合いパートが挙げられる。この場面でそれぞれがソロで歌うとき、会場が「まーゆしぃ!まーゆしぃ!」「よーっぴー!よーっぴー!」と叫ぶのである。実は私はこのコールが好きではない。彼女たちの渾身のソロ歌唱が聞こえなくなるからだ。だが二人はこの形式を受け入れて逆手に取り、ななみんの故郷凱旋となった徳島公演では、ダンスフォーメーションを無視して彼女をセンターに連れてきた。そしてその意図を瞬時に理解したワグナーたちが、コールを「なーなみん!」なーなみん!」に変えたのである。それは仙台初日のあいちゃんに対しても行われたようだ。そして千秋楽、ついに7人がそのパートでセンターに集まって歌い出し、自ずとコールは「わーぐちゃん!わーぐちゃん!」になった。そこで私も観念し、一緒にコールを叫んだのである。そしてその一体感に言いしれぬ昂揚感を覚えたのだ。

 WUGとワグナーは、WUGちゃんを場の依代としながらも、単なるコール&レスポンスを越えた高次の共存関係を築き、昂揚した意識が重なり合って、一有機体の如き一体的状況を作り上げた。全体がそこに居場所を見出し「HOME」としたのである。とりわけ仙台千秋楽ではダブルアンコールが起こり、予定外にその場で決められた「7 Girls War」が歌われることになったのだが、そこでWUGちゃんたちは、もはやダンスフォーメーションを無視して、むしろ熟成されたワグナーのコールに合わせて自由に動き回る。そしてまゆしぃとよっぴーの掛け合いソロのとき、「ハートライン」のときのように7人がセンターに集まり、全員で歌い始めた。するとここではもはやコールではなく、会場も一緒になって歌い始めたのだ。ここに申し合わせなど一つもない。自然発生的に、自発的に、ワグナーとWUGちゃんは一つの全体へと溶けていったのである。

 

 「ユーフォリア」とは、熱狂的陶酔感、強い多幸感を表す言葉だ。私はもともと「Euphorie(オイフォリー)」というドイツ語から知り、実はつい最近になってその綴りから「もしかしてよっぴーが関わってるコンテンツのタイトルってこれじゃね?」と気づいたのだが、この言葉はまさにこのときのライブの熱狂的状況を指している。このとき私は、過去に前例のないほど、このユーフォリアの中に巻き込まれていたのだ。

 WUGちゃんもワグナーも、終わりが提示されたあの時から、一公演一公演を後悔なく共に一体となるユーフォリアを求めて、互いの思いを表出し、賛同し、受け止め合って、ライブを進化させてきた。ライブの依代は間違いなくWUGちゃんである。彼女たちのこれまでにワグナーたちが共感し、彼女たちの中に幸せのイデアを見て、彼女たちにもこの瞬間の幸せを届けようとした。WUGちゃんたちもまた、逆境から始まった自分たちを応援してくれたワグナーたちに対し、全身全霊でこの瞬間の幸せを届けようとした。その結果が、このツアーの、そしてあの仙台千秋楽のとてつもないユーフォリアとなったのである。

 

 しかしここまで書いておきながら、その千秋楽について敢えて一つ水を挿す。

 「タチアガレ!」のよっぴーソロパートで、会場をブロックごとに色分けしたサイリウムを灯し、全体を虹色に染める演出が、一部ワグナーの企画で実行された。その光景にWUGちゃんたちは感動し、MCの時に求められて再現され、予定外の記念撮影も行われた。企画としては大成功である。WUGちゃんたちが幸せで、結果ワグナーみんなも幸せで最高じゃないかと。

 だが、このときのサイリウムは、そのワグナー有志たちによって開場と同時に全席に配られていた。準備には当然お金がかかっているし、そのような行為には、恐らく運営とも事前に話をつけておく必要があっただろう。勝手に全席に物を置かれては、セキュリティ的に問題があるからだ。

 入場口でも企画への参加の呼びかけがされ、席のサイリウムにはチラシも付いていた。そしてその呼びかけでもチラシにも「強制ではありません」ということが強調されていた。しかし強制ではなくても、そこにどれだけの自主性が残されていただろうか?

 実は徳島でも同様の企画がツイッター上で流れてきた。座席ブロックがちょうど縦7列に分かれていたため、アイデアとしては分かりやすかった。だが、飽くまで呼びかけだけだったため、いくつかの反対意見によってその声は萎んでいき、結局そのまま立ち消えとなってしまった。

 私としては悪い企画ではないと思ったため参加するつもりでいて、まず昼公演で4~5割が光を灯し、夜公演でそれに感化された者が7割にまで増えれば、十分虹色を演出できて成功だと思っていた。実際これまでワグナーたちは、そうやってライブの統一感を作ってきたからだ。

 しかし仙台千秋楽では、他人のお金で買われたサイリウムを、一方的に与えられてしまった。それを折るかどうかの最終判断はもちろん自分にあるのだが、やはり持参したペンライトの色を心から賛同して替えるのとは違う。たとえ虹色を演出するというアイデア自体には賛同しても、あたかも官製の企画の如く全員にサイリウムが配られてしまっていては、大勢はそれに流され、それに逆らうほうがはるかに勇気が必要となるのである。

 あれだけの企画を実行したことを、確かにそれだけの心意気として好意的に受け止めることも出来るだろう。WUGちゃんたちも喜んだのだから、結果オーライではないか。しかし、彼らはカリスマの期待を推し量り応えようとした「総統のために働く者たち」になってはいなかっただろうか?私は結局サイリウムを折った。周りの様子を見て、今はカリスマであるWUGちゃんが喜べばいいと思ったからだ。しかしそれは、意図的に全体を作ろうとした「総統のために働く者たち」に結果として判断を任せたことになり、自分の自主的な判断を放棄したことに等しい。つまり私は、自由から逃げてしまったのである。 

ひとつ みんなでひとつ 答えはひとつだね

 4thツアーで「7Senses」のこの歌詞を初めて聞いた時、全体主義の臭いを感じた人がいるかもしれない。私も一旦は眉をひそめた。 だが、「7つのセンス 7人の個性」が放棄されるわけではない。違う役目を持った自由な個が一つになるからすごい光になれ、そして「虹の向こうへ」も行けるのである。そう、約束の地へ。

 

 政治体制としての全体主義は、個人の自由を奪い、個人を共同体という有機体の一細胞にしてしまう。そして、昂揚と一体感がその細胞に与えられるとき、凶暴的なほどに破壊的な力を生み出してしまうことになる。だからこそ、全体主義には常に警戒し、それを否定していかねばならない。

 だがその昂揚と一体感が、とてつもない生命力を生み出すことも、私たちワグナーとWUGちゃんは経験した。だからこそ、自由から逃げてはいけないのだ。

 

 3月8日SSA。そこにはワグナーとは自称出来ない、ちょっと関心があるというだけの人たちも多く集まるであろう。そういう人たちにとって、WUGとワグナーが作り出す空間は、異様に見えるかもしれない。だが、私たちは自信を持っていいと思う。そこに生み出される昂揚と一体感は、とても素晴らしいものなのだと。だから最後の一回だけでも一緒になろうじゃないか、それが出来なくても、是非その目に焼き付けていってくれと願おう。

 私たちワグナーは、WUGちゃんと共に、自由な個として、最後の全体のユーフォリアを作り出そうではないか。

 そしてその想い出をリボンで「ありがとう」と包み、それぞれの明日へと歩み出そう。