新海誠『天気の子』を見て ー というか新海作品への雑感

 2回見た。1回目は公開翌週、2回目はそこから2週間後。

 1回目はほぼ予備知識を入れず、見終わった直後の感想が「ヒャッハー!キモいぜ新海!やっぱあんたはそうでなくっちゃwww」といった感じだった。当然新海の過去作を見てきた上での感想なわけだが、ちなみに『星を追う子ども』だけ未視聴です。

 上記未視聴作を除くと、新海作品は『ほしのこえ』+『雲のむこう、約束の場所』、『秒速5センチメートル』+『言の葉の庭』、そして前作『君の名は。』の3グループに大雑把に括れ、今作『天気の子』は商業エンタメ的な作風としては『君の名は。』と同グループに入るのだろうけど、内容的なテーマはむしろ『ほしのこえ』+『雲のむこう、約束の場所』に回帰してるのかなと。つまり、万人受けする『君の名は。』のビジネス的成功によって「新海誠」という名前だけで集客できる力を持ったことにより、前作で培ったエンタメ性を活かしつつ、自分が本来描きたかったものを躊躇いなくやっちまったのが『天気の子』ではないか、と思ったわけだ。

 新海作品は基本的に、たった一人の誰かに自己の発見と承認を求めている物語だ。これはもちろん、世の中に数多ある物語にありふれたモチーフである。まあしかし、彼の粘着性はなかなかのもので、彼の最大の売りである背景描写のリアリティーある美しさが、ギャップとなって自己の内面を際立たせる効果を発揮している。

 まさにアニメとしての新海作品らしさとはこれで、既視感ある風景が、普段の目線を外した位置から、俯瞰、仰観、ローアングル等で様々に美しさとリアリティーを持って描写されることで、自分が気付いていなかった新たな世界として迫り、翻って社会、世の中、世界といったものからの自己の孤立感をもたらすのだと思う。 

 処女作の短編『ほしのこえ』では、宇宙空間と時間という形で広がる主人公二人の距離によって、ただお互いだけが繋がっていたいという思いの希望と絶望がストレートに描かれる。『雲のむこう、約束の場所』では、一見ハッピーエンドのように見えて、しかし救われる世界と引き換えに、少女・佐由理が夢の中で求め続けた思いは記憶とともに消え、作品冒頭に登場していた大人になった少年・浩紀の傍らに佐由理はいなかった。

 「セカイ系」って言葉の定義は人によって結構ブレがあるようなので、あまりこの言葉に引っ張られないほうがいいのだろうけど、「セカイ系」と呼ばれがちな新海作品では、「セカイ」は本質的に主人公たちには無関心であり、たまたまリンクしているだけだ。少年と少女は、圧倒的な「セカイ」の一部に過ぎず、人知では計れない「セカイ」の意思からは結局のところ疎外されているのである。

 『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』ではSFファンタジー要素を排し、「セカイ」はよりリアルな現実として存在する。主人公たちはここでも、美しくもリアルな風景の中で、自分を承認してくれるたった一人を求めながら、希望は希望のままに、最終的には現実という社会に自己を置いて生きていくことになる。『秒速5センチメートル』を最初に見たとき、この作者は新たな作品を今後書けるのだろうかと心配になったほどだ。

 しかし『君の名は。』で新海誠は、ついに「セカイ」を救うと同時に、最終的に互いを見つけ合うハッピーエンドを描いた。だからこの作品は、万人受けして大ヒットした。だが、この作品の主人公たちがそれまでの作品と違うのは、瀧には根っからの正義感と社交性があり、また三葉には宮水家が受け継いできた使命を最終的に担う度量があったことだ。彼らは運命によって結ばれた互いを求め合いながらも、彼らが背負ったものは二人だけではなく、正義感と使命感をもって自らの意思で「セカイ」に介在していき、糸守町を悲劇の運命から救い、更には記憶の消滅という無慈悲な運命にも打ち勝って互いに辿り着くのである。いわば出来すぎなのだ。だからこそ、エンタメとしては面白い作品になったといえる。

僕は、本作を“帆高と社会の対立”の映画だと思っていて。個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話だと思うので、そこに社会は存在している。帆高は大人の社会で働こうともするし、警察も出てくるわけです

『天気の子』新海誠監督が明かす“賛否両論”映画を作ったワケ、“セカイ系”と言われることへの答え - 2ページ目 - 映画 Movie Walker

  2回目を見るにあたり、あちこちで取材に答える新海誠の記事をいくつか読んだ。上記のように、新海は『天気の子』を「帆高と社会の対立」「個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話」だと述べている。この点、『君の名は。』の瀧と三葉は「個人の願いと、最大多数の幸福(糸守町住民の命)」は一致しており、運命とは対峙しても、社会とは本質的なところで対立していない。だが『天気の子』の主人公・帆高の願いは、運命と対峙し、そのために最終的に社会と対立する。彼はただ、自分を承認するたった一人の少女・陽菜を救うために動くのである。

 これが過去作への回帰という印象を私に与えたのだ。特に『雲のむこう、約束の場所』での少年側主人公・浩紀の動機は長い眠りにある佐由理を目覚めさせることにのみあり、そこに戦争や世界の消滅という大きな運命が絡んできても、親友・拓也の協力を得て、軍事境界線を越えて(社会状況に対立して)飛行機を飛ばした。そして佐由理を目覚めさせると同時に世界の消滅という危機も食い止める。だが既述のとおり、その代償として佐由理の記憶は消え、二人の願いと思いは、佐由理が目覚めた瞬間の一瞬の交差で終わる。これが社会、世の中、「セカイ」に対する新海誠の精一杯の抵抗であり、諦めだった。

 『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』で現実社会を逡巡した後、個人の願いを叶え、ハッピーエンドにするために君の名は。』で彼が採った手段は、個人の願いを「結果として」多くの人々を救うことと一致させることだった。これは彼にとって大きな転換だったと思う。

 しかしこの出来すぎた結末は、興行的に大成功するほど万人受けしたにも拘らず、思わぬ批判も呼んだ。

君の名は。」の中で災害は起きるんですが、死んでしまった人を生き返らせる。僕はあれは、生き返らせる映画ではなく、未来を変える映画のつもりで作ったんですよ。あるいは、強い願いそのものを形にするとこういうものなんじゃないかっていう形が、映画の『肝』だったんですけど。

でも、「代償もなく死者をよみがえらせる映画である」「災害をなかったことにする映画である」という批判は、ずしんとくるものがあって。

WEB特集 新海誠監督 批判を乗り越えた先に | NHKニュース

  確かに、例えば東日本大震災で肉親や友人を失った人にとって、現実はそんな都合のよいものとして受け止められないはずだ。フィクションとは現実では叶えられない願いや夢を描くものだとしても、現実や運命の大きさを知る人は、それに対し無邪気にはなれないだろう。

 ならばどうすればよいのか。

 「君の名は。」を批判してきた人たちが見て、より叱られる、批判される映画を作らなければいけないんじゃないかというふうに思いました。

君の名は。」には、それだけ人を怒らせた何かが映画の中にあったはずで、怒らせるというのは大変なエネルギーですから、何か動かしたはずなんですよね。そこにこそ、きっと自分自身に作家性のようなものがある。

あるいはもっと叱られる映画を作ることで、自分が見えなかった風景が見えるんじゃないかという気もしたんですよね。 

WEB特集 新海誠監督 批判を乗り越えた先に | NHKニュース

  そこで『天気の子』で採った手段が原点回帰であると同時に、ついに開き直って放ったあの結末だと思う。つまり、「個人の願いと、最大多数の幸福」を一致させることなく、過去作でずっと諦めてきた個人の願い、たった一人の誰かによる承認という願いを叶えてしまったのである。私はあれを見て、まさに「ヒャッハー!」となったのだ。ついにやっちまったよと。

 新海は「帆高と社会の対立」と述べているが、発端の家出の原因についてはぼんやりとしか語れず、帆高のバックボーンとしての社会性はほぼ描かれない。彼自身は社会との対立以前に、まず社会から浮足立った状態にあった。須賀の事務所に住み込みで働くことで社会の中に身を置き始めるが、彼自身が社会と対立する動機は当初はなかった。偶然拾った拳銃によって、反社会性のアイコンを早々に手に入れるも、あくまで最初は単に社会の埒外だっただけである。

 一方ヒロインの陽菜は、母を失ってから弟の凪先輩と二人だけの生活に拘り、児童相談所の介入も拒否し、むしろ彼女のほうが社会と対立する動機があった。しかし晴れ女の能力を使ってお金を稼ぐという手段を、帆高の提案によって得たことで、誰かの役に立つ自分という、社会の中の自己を見出していく。しかしその能力の行使は、いずれ人柱として「セカイ」から消えるという代償を伴うことを知る。陽菜は社会に身を置くきっかけを作ってくれた帆高に感謝しつつも、その能力によって「セカイ」から消えるという矛盾を受け入れる覚悟をしていく。

 帆高はこのような陽菜の運命を知ることで、はじめて「最大多数の幸福」という社会と対立し、自分を承認するたった一人の少女を救うという個人の願いのために走り出した。警察から逃げ出し、道路を混乱させ、線路の上を走り、一旦は社会に引き戻そうとした須賀を前に拳銃を撃ち放つ。もともと彼には社会と対立する動機なんてなかったからこそ、社会と「セカイ」を敵に回した彼個人の願いは、運命に奪われた陽菜を取り戻すという一点に純化された。だからこそ、新海が過去作でずっと諦めてきた自分だけの願いというものを叶えることができたのだろう。

 結果として、陽菜が消えていた間だけ晴れ渡った空は、帆高とともに彼女が地上に戻ったと同時に、その後3年経っても降り止まぬ雨となって、東京を水没させていった。多くの人が住む場所を失ったことは作中でも示唆されているし、現実的にこんな状況を考えれば、疫病が広がって死んだり苦しんだりする人たちがいてもおかしくないだろう。「最大多数の幸福」を奪った帆高個人の願いの代償は、本来あまりにも大きい。

 世の中の多くのフィクション、そしてそれ以上の現実社会では、「最大多数の幸福」のために、自分自身を犠牲にすることを美徳としてきたし、今もしている。でもこの物語は、その真逆のことをやってのけてしまった。だからきっと、社会性を大切に生きる多くの人たちの怒りを買うことになるかもしれない。

 でも、たった一人の誰かと繋がりたい、自己の存在を承認されたいという個人の願いもまた、恐らく古から普遍的に存在しているものだろう。だからせめてフィクションの中だけでもと、新海はそれを堂々と突きつけてみせたのだ。

 更に図々しいことに、「こんなの異常気象ではない」(気象神社神主)、「世界なんて元々狂ってる」(須賀)、「元に戻っただけかもしれない」(立花老婦人)という台詞で、社会や「セカイ」こそ、個人の願いがもたらしたこの運命を受け入れる度量を見せてみろと言ってのけているのである。

 ホント、ヒャッハー!である。