宇宙戦艦ヤマト2199 ― 「種族を越えた理解」という理想に挑む

宇宙戦艦ヤマト2199 1 [Blu-ray]

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「俺たちは異星人とだって理解し合えるということだ。」
(第24話古代守の台詞より)

 ヤマトが「2199」としてリメイクされるにあたり、総監督の出渕裕は、旧作の矛盾点や設定の甘さに新たな解釈や新規の設定を加えることで、現代のアニオタの視聴に耐えうるものにしようと試みた。しかしそれは、単に旧作を補完するというものではなく、「宇宙戦艦ヤマト」の作品イメージをある意味大きく塗り替えるほど、ストーリーの思想性に深く踏み込んでいくものになっている。

 旧作設定の新解釈の中で、特に重要な意味を持つのが、「二等ガミラス民」という設定だ。この設定が、2199を旧作とは違う作品イメージへと塗り替えていく引き金となっているのである。

 旧作では、冥王星基地に駐留していたシュルツ以下ガミラス兵たちの肌の色が地球人と同じ肌色で、デスラー総統ら本星ガミラス人の青い肌とは異なっていた(実際はデスラーもシュルツが戦死する回までは肌色で、翌週からしれっと青くなったのだけれど…)。出渕はこの設定上の矛盾を、ガミラス人とは異なる被占領星の種族と解釈し直し、「二等ガミラス民」と位置づけることで、星間国家ガミラスが支配種族と被支配種族とに分かれる階級社会であるとの設定を加えたのである。このことによって2199では、物語の早い段階から、ガミラスが必ずしも一枚岩ではないという可能性が示されていた。

 シュルツは第2話での初登場と同時に「我々は失敗するわけにはいかないのだ。」という追い詰められた言葉を吐いている。また本星には妻と娘を残していること、功績を上げれば二等臣民から一等ガミラス民へ引き上げられる可能性があることが、回を追う毎に明らかにされていく。即ち、ザルツ人という設定を加えられたシュルツらは、単に地球を破壊しヤマトの行く手を阻もうとする敵としてではなく、彼らなりに家族を守るため、一等ガミラス民となって差別されない暮らしを得るために戦っているのだという、地球とは異なる側の悲しきドラマが描かれているのである。

 第8話、シュルツ艦の乗組員たちは、恒星の炎に焼かれていくとき、「ザルツ万歳!」と叫び、ガミラスの支配から解放され、自らの種族の誇りと共に散った。だがシュルツだけは、ただ黙って目を閉じ、妻と娘の姿を思い浮かべて散っていく。彼はガミラスやザルツといった国家、種族のためではなく、夫、父として最後の瞬間を終えたのである。本国へ戻る退路を絶たれ、「我らの前に勇士なく、我らの後に勇士なしだ!」と部下に最後の激を飛ばして特攻をかけ散った旧作のシュルツは、いわばどこまでも軍人であった。それに対し2199では、よりプライベートな人間としてのシュルツが表現されていた。

 このように2199は、シュルツたちに「二等ガミラス民」という設定を与えることによって、敵であるガミラス側の物語をより深く人間的に描いていくことを可能にした。旧作ではガミラス側の個々の登場人物たちが抱えるプライベートな事情が描かれることはなく、シュルツにしろドメルにしろ飽くまで軍人であり、その人間性も軍人としての矜持や気高さの表現に留まっていた。それはそれで、戦う者の誇りは敵味方を問わず敬意を払われるべきものだという、旧作原案者西崎義展なりの「普遍的人間性」が描かれていたといえる。だが旧作では最後まで一般市民の姿や、登場人物たちの軍人を離れた姿が描かれることはなかった。

 2199ではシュルツの物語の後、徐々にガミラス本星での一般市民の姿、反体制派の存在なども描かれていき、またドメルでさえも、その個人としての姿が明らかになる。彼は幼い息子を失っていた悲しき父であり、その悲しみを妻と分かち合い生きている夫であった。彼は政治には関心がなく、飽くまで領土防衛に誇りを持って臨む有能な軍人であり、実際に彼が最も活き活きとするのは戦場であった。だがこのような個人としての背景を描くことで、彼が悲しみを振り切るためにどこまでも軍人であろうとする姿が垣間見え、だからこそ彼は最後まで軍人としての矜持を貫き散っていく。軍人として敵であるヤマトをリスペクトする姿は、旧作同様である。旧作と異なるのは、軍人として散っていく夫を思う妻エリーサが存在することだ。彼女が反体制派に身を投じていたのも、夫が絶え間なく戦線へ赴く社会を変えたかったから、と想像してみることも可能であろう。

 再び「二等ガミラス民」という視点に戻ると、シュルツは、ゲールから劣等種族として見下されることを苦々しく感じていたのに対し、かつて仕えていたドメルについては、素直に敬意の念を表し、誇らしき良き思い出として語っている。軍人として通じ合える上官に対しては、種族の違いを越えて尊敬することが出来、またドメルもシュルツの名前を幾度か口にしていたが、そこからは部下としてシュルツを信頼し評価していた様子が伺えた。共に分かち合える土壌があれば、種族や階級といったものが越えられていることが描かれているのである。ドメルが沖田に敬意を表することも、これと通じるものだ。

 この点は既述のとおり、旧作においても、軍人同士の描写に限られながらも表現されている。もちろん軍人以外であるイスカンダルとの関係もあるが、旧作では飽くまで対象はスターシャ一人であり、彼女はいわば絶対善であって、種族間の問題とは意味合いが些か異なる。いずれにせよ旧作ヤマトは、シリーズ続編で更に、デスラーと古代の和解や「ヤマトよ永遠に」での雪とアルフォン等、敵である種族と理解し合うというテーマにより踏み込んでいる。これは原案者西崎の意向か監督松本零士の考えかは分からないが、「種族を越えた理解」というテーマは、旧作ヤマトシリーズの大きな主題の一つであったとはいえよう。旧作でガミラス本星を殲滅したあと、「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった。」と古代に嘆かせたのは、この時点で西崎か松本にそのような思想があったからだろう。とはいえ、それまでにガミラス人に同情するほどの十分な描写はなく、この古代の台詞にはどこか唐突感が否めなかった。全て滅ぼした後に今更何を言ってるのだという、半ば自己陶酔的な欺瞞にさえ聞こえた。だから続編でのデスラーと古代の和解は、この台詞を後から正当化するために作られた設定とも解釈したくなるものであった。

 2199では、この「種族を越えた理解」というテーマは、シュルツたちを感情移入できる「人」としてじっくり描いたことで、物語中盤から明らかに本作の主題となっていく。まずはアナライザーとガミロイド兵「オルタ」という異星A.I.同士の交流という変化球から始まり、そしてメルダがヤマトの捕虜となる話で、地球人とガミラス人が、人として同じメンタリティをもって理解し合える存在であることが示された。最初は「ガミラス人」メルダに憎しみの目を向けていた山本が、メルダと戦い、メルダに救われることによって、憎しみの対象が彼女個人でないことを知る。旧作でも捕虜に対する古代の葛藤シーンがあったが、ガミラス人捕虜自身の個性は殆ど描かれず、憎しみの対象が個人に向けられるものではないという結論は、飽くまで古代個人の内側でのみ自己完結していた。だが山本とメルダは、物語終盤の第22話では、イスカンダル人のユリーシャも含めた3人で、スイーツを食べながら恋話をする仲にまでなっている。この女子会場面は、緊張感が続く中での唐突な息抜きシーンではあったが、ヤマトが最後の決戦に臨む前に、目指す世界はここだと、その理想形が示されたものとも受け取れる。

 更にこれと並行して、「種族を越えた理解」というテーマは、物語終盤に改めて、「二等ガミラス民」のザルツ人を主軸としてクローズアップされる。2199で新たにオリジナルストーリーとして加えられた、第442特務小隊とその一員ノラン・オシェットを巡る話である。

 第442特務小隊は、ドメルによって召集されたザルツ人義勇兵による特務部隊だ。ヤマトがドメル艦隊と交戦する混乱に乗じ、肌の色が地球人と同じであることを利用してヤマト艦内に潜入、イスカンダル人のユリーシャを奪取することが任務であった。

 この「第442特務小隊」とは、米国の「第442連隊戦闘団」をモチーフにしていることは明らかである。この米国第442連隊戦闘団は、第二次大戦中、敵国日本の同族ということで偏見に晒されていた日系人の志願兵によって編成された部隊であり、苛烈な最前線で多くの戦死者を出しながらも、米国への忠誠を示して勇猛に戦ったことで知られている。ザルツ兵の第442特務小隊もまた、劣等種族という偏見に抗し、ガミラスへの忠誠を誓い戦う姿が描かれている。彼らがドメル配下に編入される際、バーガーから受けた偏見の言葉に対して、ノラン・オシェットがガミラス国歌を歌い出して忠誠を示し、ドメル以下ガミラス兵もそれに呼応し全体の士気を高めた。このシーンは、彼らの位置づけをよく象徴していた。

 第442特務小隊は、日本人の視聴者としては、米国日系人部隊の逸話が設定の背景にあることで、ある種感情移入しやすい存在ではある。しかしある国内でマイノリティである民族が、マジョリティの民族社会の中で生きていくためには、少なからずこのように仲間として認めてもらうための努力をしており、それは現代においても変わらない。むしろ国を越えた移動と移住が容易になった現代の方が、このような問題は多くなっているだろう。現代の日本社会でもそのような人々が大勢生活しており、私の職場にも数名いる。彼らは他の日本人社員と同様に働き、私たちと信頼関係を築いている。ザルツ兵の第442特務小隊は、単に歴史上の逸話をモチーフにしているだけでなく、現代社会へ投げかける一つの問題提起にもなっている。

 ヤマトの話に戻ろう。

 ヤマト艦内に潜入した第442特務小隊は、ノラン・オシェットを除き、皆ザルツ人としてのプライドを胸に戦死する。一人生き残ったノランは、ユリーシャと間違えて連れ去ってきた森雪をユリーシャと勘違いしたまま、護衛任務に就いていた。彼らを乗せた次元潜航艦UX-01艦内で目を覚ました雪は、ノランを見て思わず「あなた、ガミラス人なの?」と尋ねる。そのとき彼はキッと雪を睨み返した。中継所となる収容所惑星レプタポーダで、所長のボーゼンに劣等人種と侮辱されたときも、「俺たちだってガミラス人だ!」と強く反発する。ガミラスへ忠誠を立てて任務に就く彼にとって、見た目で差別されることは屈辱でしかない。そのプライドは、第442特務小隊の隊長や、ゲールに苦言を呈したときのシュルツのものと同じであろう。ザルツ人がガミラス臣民として等しく認められることが、彼らの忠誠の動機であり、戦うプライドでもあった。

 だがノランの意識は、雪との交流を通じて少しずつ変化していく。まず雪が彼をボーゼンの暴行から救ってくれたことで、彼女個人への崇敬の念が芽生える。最初はイスカンダル人と思い込んでいたことから、高貴な人の博愛性への敬意と、自分自身に直接手を差し伸べてくれたことに対する喜びと憧れであったかもしれない。ただそのことによって、彼女を守ることが、単に与えられた職務としてではなく、彼個人の内面から動機づけられた使命となっていく。やがて彼女がユリーシャではなく地球人だと気づいても、「僕の任務はあなたをお守りすることです。」と言って、それをリークすることなくそのまま彼女の護衛を続けた。ガミラスへ忠誠を尽くすことと表面上齟齬が生じない限り、ノランは雪個人を守ることを選んでいるのである。そしてヤマトが総統府へ突っ込んだとき、その事情を知らぬままノランは雪に「ここから逃げましょう。」と進言した。ついさっきまでデスラーと同席していた総統府内から自己判断で雪を連れて逃げ出すことは、もはやガミラスへの裏切りの意味を孕んでいた。だからこそ雪もその言葉に「そう言ってくれると思った。」と答え、ドレスの裾を破り捨て、ユリーシャとして演技し続けることを止めたのである。

 とはいえ、この時点のノランの目的は、とにかく危険な状態にある総統府ビルから雪を安全な場所へ連れ出すことであり、デウスーラに乗せられたまま第二バレラスへ移動した後も、外部へ脱出することだけを考えていた。その後雪をヤマトへ送り届けるつもりでいたのかまでは分からない。しかし肝心の雪が真っ直ぐに安全な場所へ逃げようとせず、デウスーラの波動砲制御室に潜入してこれをぶっ潰そうとすることで、彼の行動は行き詰まった。雪は即ち、死を覚悟していたからである。

雪「今までありがとう。もうこれ以上私に付き合う必要はないわ。あなたは早く…」
ノラン「何故あなたはそんなに頑張ろうとするんだ!」
雪「やっと見つけたから」
(古代「やっとわかったよ」)
雪「自分にしか出来ないことを」
(古代「自分がすべきことを」)
(ユリーシャ「それは……」)
ノラン「それは……」
(古代「君を守ることだ!」)

 雪がノランになんと答えたかは分からない。「ヤマトを守ること」、あるいはガミラス人を含め「みんなを守ること」だったかもしれない。しかしそのときノランにもわかった。自分にしか出来ないこと、それは、「雪を守ること」だったのだ。ノランは、波動砲を暴走させるレバーへ手をかけた雪を、銃を突きつけて引き離し、デスラー総統を救うためと詐って、波動砲制御室から追い出した。そして彼女に代わり、彼女の意志を継いで、波動砲を暴走させるのである。彼女を逃す際「これは本物のガミラス人になれるチャンスなんだよ。」と言った言葉は、雪が「ノラン…、あなた、嘘が下手よ…」と涙ながらに言うほどに、ただの方便となっていた。ノランは、ガミラス人としてでもザルツ人としてでもなく、最後は雪という異種族の個人への親愛に殉じたのである。

 このように敵側ガミラスの人間模様が描かれた末に、2199では旧作のようなガミラス本星殲滅という結末はありえなかった。本星へヤマトが突入する場面では、シュルツの娘ヒルデや、ドメルに花束を捧げた少女、ドメルのロクロック鳥と戯れていた少年たち等、それまでに作中に登場していた所謂「無垢な子どもたち」の姿も再び描かれており、旧作のように全てを滅ぼした後に「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった。」という古代の台詞を出すことは不可能なのである。結果として2199のヤマトは、ガミラスを滅ぼすのではなく、救う存在として描かれた。旧作の台詞の思想を継承するために、2199総監督の出渕は、この台詞の場面そのものを消し去り、全く別の結果へと大きく塗り替えたのだ。

 代わってこの旧作の台詞は、地球へ帰還途中のヤマトを急襲し乗り込んできたデスラーへ向かって、雪によって叫ばれた。

雪「地球もガミラスも戦う必要なんてなかったのに。お互いに相手を思い合って、愛し合うことだって!……出来た……はずなのに」

 雪はここに至るまで、ザルツ人であるノランを筆頭に、ガミラス人であるドメル夫人との心を許した会話、そしてイスカンダル人ユリーシャとの友情という異種族との信頼関係を、ヤマトの乗組員の中で最も多く経験していた。ジレル人であるセレステラともガミラス本星で対話をしており、彼女とは信頼関係を築けていなかったものの、ガミラス人でないセレステラが、デスラーに対し単なる主君として以上に心を捧げていることを、雪は感じ取っていた。漂流していたところを救助されヤマト艦内にいたセレステラは、ヤマトへ潜入してきたデスラーに不用意に駆け寄り撃たれてしまった。上記の雪の台詞は、この時、ガミラスで既に顔見知っているデスラーに向けて叫ばれたのである。

 旧作では唐突で空疎な理想主義の感を否めなかった台詞に、2199では積み重ねられた強い思いがこの時注ぎ込まれた。この台詞を真に実感のこもった言葉にすることが、出渕にとって「宇宙戦艦ヤマト」をリメイクする最大の目的だったのではないだろうか。全編を見終えて振り返ると、そう思わざるを得ないほどに、「種族を越えた理解」というグランドテーマを伴って、作品全体がこの雪の台詞に凝縮されているのである。

 2199ではまた、「絶対善」も「絶対悪」も描かれなかった。既述のように、旧作のイスカンダルは、スターシャという一人の「絶対善」として象徴されている。しかし2199では、かつて波動砲の威力をもって大マゼラン銀河を支配した種族であると明かされており、スターシャはその罪を二度と繰り返してはならないという種族の贖罪を、その思想の基礎としている(これは「ヤマトIII」のシャルバートの設定が、イスカンダルに置き換えられたものだろう)。ガミラスもここまで論じてきたとおり、「悪」と一括りには出来ず、最終的には「敵」でさえなくなった。そして何より、地球側でさえ、実は最初に戦端を開いたという「罪」を負っているのである。こうすることで、「罪」も「正義」も種族に依拠するものではないことが示されている。

 では「罪」を生み出すものとは何か?結局のところそれは「思想」であり、遍く銀河の平和というスターシャの「思想」を、自らの手を血で染めてでも武力でもって引き継ごうとしたデスラーの「思想」が、多くの人や星々を不幸にする「罪」となった。旧作ではシリーズ化されていく中で、次々現れる「敵」に「絶対悪」はなかったものの、皆最終的には撃滅される「罪」と「罰」を負わされ、ヤマトやイスカンダルに代わる存在が「正義」を体現する、勧善懲悪のエンターテイメントが希求されていった。一方2199では、誰もが「罪」を背負う(背負いうる)存在であり、過ちを繰り返すまいという意志が、平和への希望へと結び付けられていく。結局「罪」に対する「罰」を受けたのは、スターシャの願いを誤って叶えようとし、「罪」を背負っても尚自分の「思想」に盲目的に進んでしまったデスラーだった。

 大量破壊兵器である波動砲を作り出してしまったこともまた「罪」であり、イスカンダルでヤマトは波動砲発射口を封印し、二度とこれを使わないことを誓う。これにより旧作を踏襲した続編はもはやないと考えていいだろう。完全新作の劇場映画の2014年公開が発表されたが、これが白色彗星編のリメイクで、新戦艦アンドロメダの登場とまでなれば、2199でのヤマトの誓いに泥を塗ることになる。理想は破れ、戦いは幾度でも繰り返され、どんなにきれいな結末にしようとも、それが自己欺瞞に過ぎないものに陥らざるを得ないだろう。旧作ヤマトシリーズが徐々に興醒めていったのも、勧善懲悪エンターテイメントから脱しえず、「正義」の側の自己欺瞞を見透かされてしまった点は否定出来ない。

 ヤマトからブームを継いだガンダムは、その点で最初から連邦軍側の自己欺瞞を明示し、勧善懲悪エンターテイメントに陥らない仕掛けを施していた。自己の正義をぶつけ合えば、最終的にはイデオンのように全員殺してリセットさせるしかないと、富野由悠季は分かっていたのである。

 出渕はそれでも、2199で敢えて理想を物語の最終に持ってきた。但し、旧作のように取って付けたような空疎な言葉としてではなく、各々の種族が持つ「罪」を自覚させた上で波動砲を封印し、物語全編を通じた思いとして雪の言葉に結実させたのである。

 出渕によって再提示されたヤマトの理想は、現実社会を顧みれば、きっとあらゆる場面で裏切られることだろう。だが、「種族を越えた理解」というテーマを丁寧に描き切った上でその理想を裏切るのは、「種族」「民族」といった人それぞれの不可避な属性ではなく、それに囚われたままの個々人の「思想」であり、理想を守るのもまた、人々の「意志」であり「思想」である。2199はその「意志」を強く示した作品として、私は心より評価し、賞賛したい。

 だからこそ本当は続編を作ってもらいたくない。完全新作であっても、正直なところ怖い。それでも作られることになったのならば、ガミラスの再建を中心に据えた物語であってくれたら良いと思う。ヤマトは波動砲を使わず、彼らをちょっと手伝うくらいで。どうか2199で示された理想への意志を貫いた作品にしてほしい。そう願い、公開を待とうと思う。