『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-』感想

※思いっきりネタバレで書いてますので、未視聴の方はご注意。つか作品見て!気になるならお願い!見て!

  この作品のTVシリーズは、近年見たアニメの中では最も気に入っている。クオリティの高さで定評ある京都アニメーション制作作品の中でも、一番好きだと言っていい。なので、仮にあの事件がなかったとしても、今回の外伝の劇場公開を見に来ていたと思う。だが、商業的に成功することが制作スタジオを何より力付けることになるのではないかとも思い、その一助になればという気持ちがあって劇場に足を運んだことは否定しない。それでもやはり、見て後悔のない素敵な作品だった。

  

 TVシリーズヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、感情表現を知らない戦場の殺人兵器として育てられた少女ヴァイオレットが、戦後、手紙の代筆という仕事を通じ、様々な人々との交流を重ねていきながら、「愛してる」の意味を知っていく物語だ。

 では、その「愛してる」の意味とは何か?それは当然、人ぞれぞれによって形が違う。しかしこの作品で一貫してるものを敢えて一言で置き換えるなら、「赦し」だと受け取っている。様々な過ちや悔い、悲しみを重ねながらも、あなたに「生きてほしい」「生きていてほしい」「生きていてほしかった」と願うことで、願われた者の生は「赦し」となって生き続けることができる。それはこの世の生として失われた者であっても、願う人の心の中で、「愛してる」という言葉によって、生き続ける「赦し」を得るのである。

 今作『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』で主人公ヴァイオレットは、二人の少女と出会う。物語の前半は全寮制女子学校に通う貴族の娘イザベラ・ヨーク、後半はそこから3年後、孤児院を抜け出してヴァイオレットが勤めるC.H.郵便社にやってきた10歳の少女テイラー・バートレットだ。この二人は、かつて貧民街で一緒に生きていた疑似姉妹であった。

 イザベラは、エイミー・バートレットの名で孤独に日銭を稼ぎながら、その貧民街で生活していた。そしてある日、親に捨てられ雪の中にうずくまっていた幼いテイラーを自分の妹として迎える。二人で幸せになることがこんな世の中への復讐なんだと誓い、エイミーはテイラーと共に貧困の中で必死に生きていた。

 だがある日エイミーは、突然現れた紳士に、自分は貴族ヨーク家の非嫡出子であること、その紳士が父であることを告げられる。そして過去も「エイミー」という名前も捨てて共に来れば、妹テイラーの生活は保証してやると言われ、彼女はテイラーを残し、ヨーク家の娘イザベラとなった。

 イザベラの教育係兼侍女としてヴァイオレットが女子学校に派遣されてきたとき、イザベラは牢屋に閉じ込められているが如き日々に鬱屈していた。この学校にいる生徒は皆、名声ある男の下に嫁ぐためだけに教養と嗜みを学ぶ存在であること、過去を捨てた自分もまたヨーク家の娘という以外に価値のない存在であることに絶望していたのである。

 だが、当初反発していたヴァイオレットに対して、彼女も孤児であったという過去を知ったことで、次第に心を開いていく。そしてある朝、遅刻しそうになりながら校舎に向かって二人で走っているとき、イザベラはヴァイオレットに「このまま二人でどこかへ行っちゃおうか」と冗談交じりに言う。するとヴァイオレットは「どこへも行けませんよ」と静かに答えた。

ヴァイオレット「いいのでしょうか?私は、自動手記人形でいて、いいのでしょうか?生きて……生きていて、いいのでしょうか? 」

ホッジンズ「してきたことは消せない。でも、君が自動手記人形としてやってきたことも、消えないんだよ。ヴァイオレット・エヴァーガーデン。」

TVシリーズ第9話より)

 イザベラが捨ててきたものは、「エイミー」という名前と過去だけではない。テイラーを幸せにするという名目で、テイラーと一緒に幸せになってこの世の中に復讐するという誓いも、そして捨て子だったテイラーのことも再び捨ててきてしまった。しかしその全てが消えない過去であり、その結果としての今も消えないのである。この時点でのヴァイオレットはまだイザベラの過去を知らなかったが、「どこへも行けませんよ」という、一見冷たく突き放したようなヴァイオレットの答えは、彼女自身の経験から自ずと出されたものだ。それは、消えない過去と、その結果としての今の自分を受け入れてもよいという「赦し」だったのだろう。だからイザベラは、ヴァイオレットに反発せず、黙って一緒に校舎へと走った。

 デビュタントと呼ばれる初の舞踏会を無事に終えた夜、イザベラはヴァイオレットに自分の過去を打ち明ける。するとヴァイオレットは、テイラーへの手紙を書くことを促した。イザベラは短い手紙を書き、ヴァイオレットにそれを託して、翌朝、教育係の役目を終えて立ち去る彼女を見送った。

 これに続くシーンは、正直なところ少し説明不足な感じはしたが、前半作中に取り巻きに囲まれた名家の子女として幾度か登場していたアシュリー・ランカスターが一人で現れ、やっと二人で話せるとイザベラに近寄ってきた。何か企んでるんじゃないかと思わせる登場だったが、日陰から陽の差す窓辺へと踏み出して「家柄とか関係なく、あなたと話したかったの」と告げたことで、これが「イザベラ」という今の彼女を承認するシーンなのだと理解できる。

 後半、孤児院の庭に一人でいたテイラーのもとへ、C.H.郵便社の郵便配達人ベネディクトが現れ、二通の手紙を届ける。一通はヴァイオレットから、もう一通がイザベラからのものだ。まだ幼くて言葉が拙く字が読めないテイラーに、仕方なくベネディクトは手紙を読んで聞かせる。

 ヴァイオレットからは「困ったことがあれば、いつでも訪ねてきてください」と。そしてイザベラの手紙には「魔法の言葉」が記されていた。その言葉とは「エイミー」。テイラーを幸せにするために捨て、もう誰からも呼ばれることがなくなった名前を、イザベラはテイラーを幸せにする魔法の言葉として彼女に残したのだ。

 3年後、10歳になったテイラーが、ここで働きたいといってC.H.郵便社にやってくる。無断で孤児院を抜け出してきたのは明らかだったが、問い合わせ等の手続きをする間、見習いとして面倒を看るよう、ホッジンズ社長はヴァイオレットに言い渡す。しかしテイラーは、自動手記人形ではなく、郵便配達人になりたいと言った。3年前、ベネディクトが自分に幸せを届けてくれたから、自分もそんな仕事がしたいと。

 そのころベネディクトは、代り映えのない毎日をつまらないと感じていた。だが、「師匠」と慕って付いてくるテイラーと関わる中で、彼の心も動かされていく。また、字が読めないテイラーに、ヴァイオレットも配達を手伝いながら字を教える。それはかつて彼女が軍にいたころ、唯一彼女を兵器ではなく人として接してくれたギルベルト少佐が字を教えてくれたことをなぞるように。

 テイラーは、ヴァイオレットに手伝ってもらいながら、エイミー宛の手紙を書く。しかし彼女は今、どこにいるか分からない。でも、どうしても届けたいと訴えるテイラーに、ベネディクトは答えた。

届かなくていい手紙なんてないからな。 

 あらゆる手を尽くしてエイミー=イザベラの居場所を突き止めたベネディクトは、新調してもらったサイドカー付バイクにテイラーを乗せ、過去を消されるようにイザベラが嫁いだ貴族の館へと向かう。

 館の外の人と殆ど交わることなくひっそりと暮らしていたイザベラは、日に一度だけ昼時に裏門から外に出、池の畔に立つのを習慣にしていた。淑女然とした濃紺の服を着て静かに池の淵に現れたイザベラに、ベネディクトが歩み寄り、エイミー・バートレッドへの手紙だと言ってそれを手渡す。驚いたイザベラは差出人の名を見、手紙を読んで泣き崩れた。

私はテイラー・バートレットです。
エイミー・バートレットの妹です。 

  たったそれだけの文章だったが、それはイザベラにとって間違いなく幸せを届ける手紙だった。あの子の幸せのために捨て、魔法の言葉として託した「エイミー」という名前を、テイラーは妹として今も呼んでくれているのだから。それは「イザベラ」となった今の彼女自身を認めてくれる過去からの「赦し」だったと言えるだろう。

 草陰に隠れて泣きながらエイミーを見ていたテイラーは、しかしそこから出ては来なかった。帰り道で「本当に会わなくてよかったのか?」と問うベネディクトに、「いつか自分で届けに行くから。」とテイラーは笑顔で答える。一人前となった幸せな姿で自ら手紙を届けに行くことが、「エイミー」の選択を全肯定することであると、幼い彼女は無自覚のままにも分かっていたのだろう。

 再び館から現れた姿が映されたイザベラ=エイミーは、真っ白な服をなびかせ、力強い足取りで、裸足のまま池の畔へと歩み出た。そして大きな声で「テイラー!」と叫ぶ。遠く離れていても、互いに名前を呼び合うことで、それは互いの幸せを願う魔法の言葉となるのである。

 作中、街灯がガスから電気に替わり、結婚しても女性が仕事を続けていかれる新時代の息吹が折々に描かれていた。手紙の届け先の老婦人が建築中の電波塔を指して毎回「あれはいつ完成するんだい?」と訊いてくるのに対し、当初は面倒くさそうに対応していたベネディクトが、最後は「そのうち、そのうちな。」とどこか楽しげに答える。それはまるで、テイラーが一人前になるのを待っているかのようだ。

 きっとテイラーが一人前となって再びエイミーに会いに行くとき、エイミーもまた真っ白な服で館の奥から新時代へと力強く踏み出すのかもしれない。そのとき復讐ではなく、新時代で二人で幸せになるという誓いが果たされるのではないだろうか。互いが名前を呼び合う限り、捨てた過去は、決して消えないまま未来へと繋がるのだから。

 

 今作のエンディングクレジットでは、作品に関わった全てのスタッフの名前が記されたという。従来京アニでは、就業一年未満のスタッフは除かれていたというのだが、今作で初監督となった藤田春香氏のたっての希望で全員の名前が明記されたということだ。今作では名前というものがとても重要な意味を持つ。だから仮にあの事件がなかったとしても、そしてあの事件があったからこそ、関わった全員の生きた証として、クレジットに全ての名前を明記したのだろう。

 世間では、報道であの事件の被害者の名前を公表したことの是非が論議になっているが、確かに遺族の意向に反して勝手に公表することは避けるべきだったろう。しかし名前を知ることで、35人の犠牲者という数字だけではない、一人ひとりの生の存在の重みを感じることも確かだ。少なくとも、今作のクレジットに記された全ての名前を見つめ、この作品を作り出してくれたスタッフの皆様全ての生に感謝したいと思う。