イアン・カーショー『ヒトラー 権力の本質』

ヒトラー 権力の本質

ヒトラー 権力の本質

内容紹介
ヒトラーと彼を取り巻く政治家や官僚、教会、財界、そして民衆の動向を論じながら、ヒトラーがいかにして権力を獲得し、いかにして「カリスマ」となりえたのかを描きだしていく。

 学生時代はドイツ戦後史、主に西ドイツの50年代をメインに勉強していたので、ナチ時代はその戦後史を知る前提として触れていて、自ずと所謂社会構造史にその関心が偏りがちだった。まあ昔の話なので、今その社会構造史としてのナチ時代についてツッコまれても、知識の引き出しが錆びついててまともに答えることは出来ないのだが、なんにせよヒトラーという個人についてきちんと読んでみたことがなかったので、今更ながら少し彼個人についてかじってみようと思った。とはいっても、ヒトラーのような人物が台頭し権力を掌握したことには、社会的な素地が必要であったことは必然であり、ヒトラー一人の天才性や悪魔性にこの時代を帰してしまうのは、歴史の理解としては正しくない。そのような視点に基づいて、いつかは読まねばと心に積読したまま長年放置していたのがこの本だった。

 著者イアン・カーショーはイギリスを代表するドイツ史家で、基本的には社会構造派に分類される。それゆえ本書もヒトラーという個人史を描くことが主眼ではなく、ヒトラーがどのように権力を獲得し行使したかを、彼を取り巻く諸勢力の動向を通して描いていくものである。だがそのような絡みの中で、ヒトラーという個人の姿も浮かび上がってくることになり、人物としてのヒトラーを知ろうと読み始めた私にとっても、十分その興味に応えてくれた。

 ここでは「カリスマ支配」という言葉がキー概念となる。ヒトラーには扇動家として非凡な才能があったことは確かであろう。ヴァイマール体制に対する不満と社会不安の中で、大衆を煽り魅了する力がヒトラーにはあった。それはまず何より、ナチ党内における彼の絶対的地位と、取り巻き達の彼に対する個人崇拝を築いた。それ自体は彼個人の資質に依拠するものと見做してよいだろう。だがそのヒトラーのカリスマ的存在性は、彼に魅了された者のみならず、彼を軽視し、上手く利用しようとした保守派をも巻き込み、やがてヒトラー自身を離れ、虚像として一人歩きしていくことになる。ヒトラーという個人が持つ権力は肥大化していくが、支配者としてのヒトラーにはその権力を個人として使いこなす資質はなく、ヒトラーという虚像の期待を推し量り応えようと「総統のために働く者たち」によって、合法的支配は崩れ、「カリスマ支配」というものが暴走していくのである。

 このような権力構造を描き出していく本書は、非常に示唆に富み面白いものであった。同時に本書は、上にも書いたように、そのような虚像に対して実際のヒトラー自身はどんな人間であったのか、という点が浮き彫りになる点でも面白い。虚像に対し周りが意を酌んで動いていく原因としては、ヒトラー自身がままならぬ情勢が進むにつれ、徐々に人との接触を避け引き籠っていった、というところがある。つまるところ支配者としてのヒトラーは、自ら決断できない弱い男であったのだ。

 そのような決断力のないヒトラーを表す例として、総力戦の最中に浮上した競馬の施行の是非を巡る問題は、個人的に非常に興味深いものであったが、この点は追って競馬ブログの方で取り上げたいと思う。