鷺沢萠『過ぐる川、烟る橋』

過ぐる川、烟る橋 (新潮文庫)

過ぐる川、烟る橋 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
1970年代、東京。貧しくとも、ささやかな夢を分け合う二人の男がいた。九州から単身上京、中華料理店で働く篤志。身体がデカいのが悩みの彼は、店の先輩・勇のすすめでプロレスの世界に足を踏み入れる。運を掴む篤志と、見放される勇、その間で揺れるユキ。時を経て再会した三人は、何を得、何を失ったのか ―?青春の記憶を手繰り、夜の博多に漂うノスタルジック・ラブストーリー。

 上の公式内容紹介にある「ラブストーリー」というのは違うかなと。夜の博多を歩く数時間と、その間に回想される20数年間が相互に重なり静かに綴られていく一人の成功者脇田の半生の物語であり、人間関係の軸は、ユキよりも先輩の波多江との方にある。

 身体がデカイくて目立つことにコンプレックスを抱える地味で寡黙な青年脇田に、職場の先輩波多江がプロレスの世界へ進むきっかけを与える。それは大きな体を亀の甲羅に閉じこめるように生きている脇田に対する波多江の優しさであったが、プロレス自体はほんの偶然的な成り行きに過ぎず、人生の転換点は決して大きな事件のように現れたわけではなかった。だが脇田は真面目さだけを取柄に周りからの信頼を得、一瞬点火する獣のような本能によって運を掴み、結果としてスターレスラーとして成功する。一方で、波多江は俄かの浮き沈みを繰り返しながら社会の底辺を彷徨い生きていくことになる。成功者の導き手が成功者であるとは限らない人生。
 「あっちゃんは、強いから…。」
 波多江の元へと去ったユキの言葉に、「強くなんかないよ、僕は。」と彼女が立ち去った後、脇田は独り呟く。そのときのことを思い出す40過ぎの脇田も、基本的には変わらずそのように自覚している。だが自分から人生を切り開く人間でなくとも、「手を抜くのが嫌だった。」という気持ちだけで与えられた状況を真面目に黙々とこなしていかれる人間は、やはり強い。人生の勝者と敗者の違いは、そういう強さの違いなのだろう。

 少し異なるが、中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」(吉田拓郎に送った歌で、歌としては拓郎バージョンの方がイメージに合っている)の中で、上海の裏町で病んでいるという友に対し、「永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか」という歌詞がある。自分に勇気を与えてくれたり、人生の転換点となるきっかけを与えてくれた人が敗者となっていく様。それは成功者にとって最も見たくないものなのかもしれない。だから脇田は波多江の人生に自ら問いかけ直視することを避けていた。だが博多の夜を歩き続けた末に辿り着いてしまった波多江の屋台。そこに描かれたのは本当の姿と嘘の言葉。

 女同士のことはよく分からない自分だが、男同士というものはどこかプライドというものを捨てられないものだ。だから男は永遠の嘘をつき続ける。恐らく脇田は自分の成功に波多江への後ろめたさを引き摺りながら、しかしこの後も永遠の嘘を波多江に求め続けてしまうのだろう。この小説の作者鷺沢萠は、女性でありながら男の遣る瀬無さみたいなものを、よくもこう描いてくれたものだと思う。