"Wake Up, Girls!"というアイドルの物語 − 単独イベント「イベント、やらせてください!」を終えて振り返る

 一週間前の4月27日、Wake Up, Girls!の初の単独イベント「イベント、やらせてください!」に行ってきた。

 この手のイベントは2年前のアイマス7thライブ以来だが、あの時はアケマス時代からの古参Pである競馬クラスタから誘われ余剰チケットを回してもらったもので、今回のように自分からチケット購入に動いたものではない。またあの時は横浜アリーナだったのに対し、今回は品川ステラボールというスタンディングライブ会場。規模がまるで違う。若い頃ファンクラブに入っていた某アイドルのコンサート(ライブなんて言い方じゃなかった)でも、既にそこそこの人気になってからだったし、こんなふうにド新人アイドルユニットのライブイベントに行くなんて初めてだ。もうおっさんなのに、よくやるよオレ……(苦笑)

 しかしこのWake Up, Girls!(以下WUG)という一連の企画を通じ、この子たちには、なんというか放っておけない衝動みたいなものが沸き起こってしまったのだ。観客をざっと見回してみても、アイマスライブより平均年齢押し上げているおっさん比率が高かった気がする。「あんたらイベントTシャツにマフラータオル巻いて気合入れてるけど、普段はスーツ着て、会社で若い部下たちをどやしつけてる営業課長や、怒らせたら怖い総務部長なんじゃないの?」って顔した人もちらほらいた(まあ、クリィミーマミに萌えてた頃からそのままって雰囲気のおっさんもいたけど)。WUGには若いオタたちだけでなく、おっさんたちの心に触れる何かがあるのだろうか。少なくとも私の心には触れてしまった。

 敢えてアイマスの話から始めよう。

 自分はゲームの類をやらないためアイマスの本道には触れていない。とある友人がニコマスにはまってはてブをよくしていたので、私もなんとなく眺めているうちに二次創作に対するその懐の深さが面白くなり、アイドルの基本キャラ設定を覚えたり曲の豊かさに惹かれていった結果、いつの間にやらすっかり千早病をこじらせていたのだ。そして制作者の愛情に溢れたアニメ化が実現し、それを堪能したのである。古参Pも新参のアニオタも、多くがこのアニメ作品で「アイドル」という偶像世界を楽しんだはずだ。 

 またアイマスは、中の人たちのイベントやライブ活動によっても、そのダイナミズムを展開している。声優が出演作品のキャラソンを歌うイベントは多くあるが、アイマスほど一つのジャンルを確立したコンテンツはなかなかあるまい。

 ゲーム、アニメ、ライブといった主催者側からの展開と、ニコマスを始めとしたファンの二次創作による拡大と深化。アイマスは多くのPたちによって磨き上げられてきた。そして劇場版『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』で、アイマスはある種アイドルの理念型にまで近づいたといえる。

 アニメやゲームにはまることへのハードルがかつてより大きく下がっている昨今、アイマスを通じてリアルにアイドルを目指す子が現れても不思議ではなく、既にAKB48のような大所帯の中にはそういう子がいてもおかしくないだろう。声優が歌って踊るアイドルの入り口にもなっている。また当然二匹目のドジョウを狙って、他にもゲームやアニメと三次元とのメディアミックスを前提とした企画が現れるきっかけとなった。ラブライブはその一番の成功例であり、多分ミルキィホームズなんかもその範疇に含まれてくるのだろう(私自身は両方とも全く触れてないのだが)。

 WUGもまた、そういった二匹目のドジョウを狙った企画であることは間違いない。アイマスが築いた道がなければ、アイデアとして生まれても、企画として大きく動き出すことが出来たかは怪しい。エイベックスを巻き込んで新人オーディションから始めるといったプロジェクトは、アイマスという成功例がなければ出来なかっただろうし、2000人も応募者が集まることもなかっただろう。

 だが、WUGが他と一線を画する特徴は、まさにこの新人オーディションから始めたというところにある。メインキャラ島田真夢役のまゆしぃ(吉岡茉祐)を除く6人は、全く芸歴のないド新人であり、まゆしぃも知名度のない子役俳優をやっていた程度だ。アイマスラブライブの声優たちは、最初は無名レベルだった人たちも多いが、釘宮理恵のような売れっ子も含まれ、皆多かれ少なかれ経験者たちだった。(※追記 この辺はちょいちょいツッコミ受けたので訂正。アイマスラブライブもそれが初作品の声優さんが何人かいます。ちょい勢いで書いた。すまんです。)それに対しWUGは、実質的にゼロから始めた声優兼アイドルユニットだ。即ち、素人を集めたローカルアイドルユニットの成長物語というアニメ作品は、それを演じる中の子7人の成長物語にもなっているのである。このようなアイデアは決して斬新なものとは思わないが、7人の女の子たちの人生に決定的な意義を持つという点では、生半可なものであってはならない企画だった。

 而して1月から始まったアニメ作品は……およそ褒められたクオリティーのものではなかった。

 物語の序章にあたる部分を劇場版で、それを前提としたストーリーがテレビ放映で同時に始まるのだが、何を狙ったつもりか分からないが、テレビから入った人たちは出だしからしてやや取り残されたもやもや感に襲われてしまう。私はテレビ1話を見たあと、ニコニコ動画の劇場版有料配信に手を出したが、ここで手を引いたアニオタも少なくなかろう。また、劇場版とテレビ第1話で描かれた初ライブでのパンチラシーン。劇場版を見ればWUGの7人が腹をくくって臨んだことが一応理解できるが、テレビだけだと制作者が安易にエロで媚びてるような印象を覚えかねず、私も初見では不快に感じた。そして不本意な下積み営業を描いた第2話では更に不快なシーンが描かれ、アイドルたちの爽やかな成長譚を期待していた視聴者はここで相当数離れたに違いない。冒頭に触れたアイマス古参Pも、ここで切ったという。

 更に追い打ちをかけたのが、既に最初からやや不安定さを感じさせていた作画が、早くも第3話にして大崩壊したことだ。普段は多少の作画乱れは気にしないのだが、この回は見るに耐えなかった。またストーリーも安直な「いい話」で、およそきっちり練りこまれた脚本とは思えなかった。アニオタは3話までで視聴継続の見切りをつけるというが、そういう意味ではこの第3話に視聴者を引き止める力はまるでなかっただろう。

 結局作画、脚本は、最後までクオリティーが低いままだったと言わざるをえない。作画は映画が通常テレビ放映の標準レベルで、テレビはもう全くスケジュールに追いついてないのが丸分かりだった。監督のヤマカン(山本寛)氏、制作会社タツノコプロは、アニメ制作者として失格である。シリーズ構成・脚本も練り込み切れていたとは言えず、大枠としての設定と流れに対し、ディテールが色々と甘かったり薄かったりで、それら総じてこの作品は「出来損ない」になってしまった。

 と、ここまでこの作品を全く褒めていないのだが、ではなんで私はここまで入れ込んでしまっているのか。それは何よりアイドルたちを演じる7人の新人たちに惹かれてしまったからだ。

 それでも百歩譲ってまず原案者であるヤマカン氏を立てると、この作品のアイデア、設定自体はよかった。新人アイドルの成長物語という設定自体は特に真新しいものではないが、それぞれ色々な思いを持ってアイドルの道に踏み入った少女たちの群像劇というのは、ストーリーとして十分期待の持てるものだった。しかし作品自体の出来は既述のとおりである。だがそんな作品にしてしまったダメな大人たちに対し、作中でもダメな大人たちの下でアイドルたち自らがもがき悩みながら頑張っていたのと同様、新人声優の7人がキャラに自分たちを重ねるかのように一生懸命声を注ぎ込んでいるのが伝わってきた。作中の新人アイドルWUG7人と新人声優WUG7人のシンクロ感は、作品の不出来具合を差し置いても、二次元、三次元ともに「この子たちを応援したい」という気持ちにさせる力があったのである。

 もちろん声優の演技に耳慣れたアニオタ視点に立てば、この子たちはまだまだ素人臭さが抜けない。だが「素人臭さ」というは、ジブリが(話題作りも込みで)アフレコ経験の乏しい有名人を起用しているように、専門職の声優では逆に出せない味わいを引き出すことがある。もっともジブリの場合、「素人臭さ」を消費している感に、戦略としての嫌らしさが付きまとってしまうのだが、WUGの7人は出し惜しみなく自分たちをキャラにぶつけてきていたため、その「素人臭さ」が未完成で荒削りなアイドルユニットというキャラたちに存外なほどリアリティを与えたのである。例えばあいちゃん(永野愛理)のどうしようもない素人臭さは作中の林田藍里の素人臭さそのもので、花澤さんでもこの鈍臭さは表現できまい。(褒めてない?この作品ではベストマッチということだ。)

 とはいえ、彼女たちの全力投球が単発の「素人臭さ」の消費で終わってしまっては、彼女たちの人生に対し不誠実に過ぎる。しかし残念ながら作品自体は、彼女たちを押し上げる十分な力にはなっていない。この「素人臭さ」が通じるのはこの作品だからこそで、次からはそうはいかない。また今回のような作品制作では、容易に2期というわけにいかないだろう。仮にやる話があるとしても、ヤマカン氏や脚本の待田堂子氏、タツノコプロが今度こそしっかり仕上げたシナリオと制作スケジュールを用意しない限り、製作委員会の他の参加組織(エイベックスや学研か)が許すまい。待田氏の小説版を読むと、活かし切れなかった設定がいろいろあり(ななみんは本当にもったいない)、アニメ作品が如何に不十分な仕上がりであったかがわかる。

 ではこのままWUGというコンテンツは終了し、彼女たちは放り出されてしまうのか。WUGの明日はどっちだ?

 その明日を示す光を今唯一残し、強く照らし出そうとしているのは、他ならぬWUGの7人自身である。当初作品を見ながら「この子たち下手なりに頑張ってるなあ。でもこれが終わったあと大丈夫かなあ。」という程度に気にかけていたのだけど、何気なくニコニコ動画に上がった2月のワンフェスのステージを見た時、一気に心を掴まれてしまった。

 出てくるなり、まず観客以上に自分たちがその小さなイベントステージに立っている喜びを溢れさせている。そして1曲目の劇場版主題歌「タチアガレ!」。前向きな力強さと初々しさに充ちた楽曲の良さが、彼女たち自身の活力を引っ張りだし、とにかく全力で歌い踊る7人。当然まだまだ荒削りなのだけど、この出し惜しみのないパフォーマンスには思わず引きこまれてしまう。しかも歌い終わったら、1曲目であるにもかかわらず既に出しきった満足感が溢れてしまって、その後のMCはロクなしゃべりになってないのだが、その初々しさがまたいいのだ。庇護欲を掻き立てるような初々しさではなく、ミスっても構わないからそのままガンガンいっちゃえ、って応援したくなるフレッシュさ。結局3曲目のテレビ版OP「7 Girls War」を歌い終えたあとは、「楽しかった〜!」「全部出しきっちゃった、どうしよう。」とか言ってる始末だ。まったく、作中で早坂が評するところの「ごっつごつのおイモちゃん」なのだけど、ホカホカに蒸かして塩振っただけのおイモのなんと魅力的なことよ。

 作品のキャラを演じる声優がイベント用にユニットを組んでいるというのではない。彼女たち自身がWUGそのものとなっているのである。作品終了と同時に終わらせてしまうわけにはいかないだろう。彼女たちは、WUGとして今タチアガッたばかりなのだから。

 第1話で事務所の存続が問題になっている時、「私たちが頑張れば事務所だって持ち直すってことじゃないですかぁ。」というみゅーのセリフがあるが、作品制作がボロボロの中で、リアルWUGの7人がまさにそれを体現しているようである。となると、その頑張りに応えるのは周りのスタッフだけではない。ファンが彼女たちにどう応えるかも問われているのである。

 そんなわけで私はテレビOP、EDのCD2枚と劇場版BDを発売と同時に買い、CDに封入されていた優先申込券を使って4月27日のイベントチケットを入手したのだ。

 そして年甲斐もなく行ってきた品川ステラボール。開場に一時間以上待たされるという手際の悪さには、つくづくWUGの周りのスタッフしっかりしてくれよ、と思わされたのだが(自分は整理番号が早かったので建屋内に入れていたが、春の炎天下で待たされた後方グループはかなりきつかったらしい)、いざ始まると、期待通りのWUGらしさが弾ける、実に楽しいステージだった。

 ミニライブと各種企画コーナーという構成で、まずは「タチアガレ!」で幕が開く。作中と同じ制服を着て歌い踊る彼女たちに、キャラクターたちのイメージがピタリと一致する。このキャラと中の子とのシンクロ度だけは、アイマスでもラブライブでも決して敵うまい。この時点でもう大満足である。

 続いて松田マネージャー役の浅沼晋太郎氏が登場し、彼の司会の下、各種コーナーが進行する。2chツイッターでもみんな言ってたが、リアル松田は実に有能だ。このイベントが楽しく盛り上がれたのは、彼の軽妙なしゃべりと、WUGたち一人ひとりの個性を上手く引き出す切り回しの良さによるところが大きい。作中の松田はキャラクターを活かし切れず、視聴者からも完全に無能扱いされてしまって実に残念だったが(会場の浅沼氏はしっかりそれをネタにしてたけど)。

 各種コーナーは、アニメの場面の振り返り、WUGメンバーが互いの問題点を告発し合う裁判コーナー(メンバー個々人の個性を楽しく引き出す企画であるが、よっぴー(青山佳乃)一人がいじられまくって全部持っていった)、浅沼氏が一旦下がってメンバーだけの模擬ラジオコーナー(これも基本はアニメに則した話題で盛り上がった)という感じで、変にダレることもなく、とても楽しく進行する。これもひとえに彼女たち自身がこの瞬間を楽しんでいたからだろう。ワンフェスの時よりもみんなしゃべり慣れていて、そういうところも「成長してるなあ」と感じられてよかった。

 各種コーナーのあとはお色直しをし、作中「アイドルの祭典」でのステージ衣装を着て「7 Girls War」「言の葉 青葉」「16歳のアガペー」を披露。これも全力で彼女たち自身がステージを楽しみ、観客に楽しんでもらおうという気持ちが弾けていて、本当に気持ちがいい。最終話で「自分が幸せでなければ、誰も幸せに出来ない」というまゆしぃのモノローグがあるが、ここのいる7人はまさにそれを実践していた。

 ここで一旦お約束の終了をし、彼女たちが下がったあと、お約束のアンコール。観客のコールは「アンコール!」ではなく、作中同様に緑のサイリウム(事務所名がグリーンリーヴスだから緑がチームカラー)を振って「Wake Up, Girls! Wake Up, Girls!」。彼女たちが戻ってきて、まゆしぃが「持ち歌4曲しかないんですけど…」と言うと、観客皆が頭上に両手で丸を作って「オゥケィ!」。観客も一緒になってアニメの再現だ。となれば、当然歌うのは最初の曲「タチアガレ!」。この流れはアニメとリアルとのコラボイベントならではの楽しさだろう。

 このイベントでは、結果として真新しい情報はなく、夏のライブツアー向けに新曲の一つも発表されるかと期待していたが、それもなかった。飽くまでアニメ作品「Wake Up, Girls!」の一つの締めくくりのイベントだったということだろう。ある意味それゆえに、最初から最後まで会場が一体となってこの瞬間を楽しむことができたのかもしれない。

 だが当然これで終わりであってはいけない。WUGの7人はキャラとシンクロしたアイドルユニットであると同時に、メンバー一人一人が独立した新人声優である。唯一の新情報として「Wake Up, Radio」というレギュラーラジオ番組が始まることでWUGとしての活動も一応継続していけるが、WUGを離れたそれぞれの活躍も重要になってくる。幸いかやたん(奥野香耶)とみにゃみ(田中美海)は早速夏アニメ「ハナヤマタ」のレギュラーが決まり、ななみん(山下七海)もローカル番組ながら「おへんろ。」で仕事を得た。ファンとしてこんなに嬉しいことはない。

 かやたんは7人の中で最も艶のある声で、アニメだけでなく洋画の吹き替えなんかでもいけると思う。「ハナヤマタ」では更に実力を磨いてほしい。

 みにゃみの声はまさに元気な女の子がぴったりで、「ハナヤマタ」でもそういうキャラのようだから、まずは自分の長所を鍛えあげてしまおう。

 ななみんは、「おへんろ。」で地元に愛されるキャラを演じ、菜々美だけでは出来なかった表現の幅をつけていってほしい。

 まゆしぃは既にステージ度胸があり、イベントやラジオで場馴れしながら次の仕事でその度胸を活かしていけば、まだまだ伸びる。

 みゅー(高木美佑)はいわゆる萌えキャラ声がはまってたのだが、低い声では意外と艶があるので、表現力を更に磨けば活躍の場はある。

 よっぴーは受験生で地元も熊本だから、当面大きな仕事は出来ないかもしれない。しかししっかりと通る声は十分なポテンシャルを秘めているので、焦らずチャンスを掴んでいってほしい。

 一番心配なのはあいちゃんだけど、ステージでは藍里と異なり自分から積極的に動いて明るく輝いていた。前向きにしっかり表現力を磨いていけば、あいちゃんならではの癒し系ボイスを活かすチャンスは来るだろう。

 序章である劇場版とテレビ版最終話に社長の丹下の「アイドルとは物語」というセリフがあるが、彼女たちはまさしく今、自ら声優としてアイドルとしての物語を紡いでいる。イベントが終わり、「Wake Up, Girls!」という作品を一旦離れて、みんなそれぞれのステップに踏み出す。ここから7人の群像劇は更に深みを増していくだろう。まずは夏のライブツアーで、作品から一歩踏み出した新たなWUGを見せてほしい。私も東京公演は昼夜2回とも見に行く。そしてそれぞれが各々の経験を積んだ姿として、アニメ作品としてのWUGの物語を再び見たいと思っている。それまで彼女たち7人には前向きに一歩一歩がんばっていってほしい。

 そして当然だが、ヤマカンさん、大口叩くばかりでなく、今度こそは結果で唸らせるようなしっかりした作品を作ってくれ。頼むよ。



【追記】
 まさかブクマ100越えとは想像してなかったわ……(大汗)

 自分としては、イベント後いろいろ胸に溜まってたものをアウトプットしないと他のことへ気持ちの切り替えが利かなそうだったので、チラ裏のつもりでダーッと書き綴ったのだけど、意外にもはてなでヒットしてしまいビックリです。いろいろご意見ご批判どうもありがとうございます。

 そんな感じで書いたので、いろいろツッコミは甘んじて受けます。特に「アイマスラブライブの声優たちは、最初は無名レベルだった人たちも多いが、釘宮理恵のような売れっ子も含まれ、皆多かれ少なかれ経験者たちだった。」ってとこは、「もしかしたらあさぽんとかアイマスが最初だったっけ?」とか「ラブライブは正確には知らんが、名前を知ってる子はこれより前に作品あったよな」とか頭の隅っこで思いながらも勢いで書いてしまったので、大変失礼しました。どうもすみません。それらが初作品の声優さんも複数おりました。まあWUGは全員まとめてド新人なのでそこが他作品と違うといえるのですが、しかし厳密にはまゆしぃが「そんなとこでやってたとか知らんがな!」ってとこで微妙に経験者なのでゴニョゴニョ……

 作品についてはとことん批判しか書きませんでしたが、やはりアイドルの成長物語であるWUGの全体ストーリーは好きなので、最後まで毎週楽しみにしながら見てました。ただ各論になると評価の上げ下げが大きく、作画の不安定さは言わずもがな、脚本としては、例えばななみんと松田のキャラを最後まで十分に活かし切れず、それが非常に残念。本文でもちょっと触れたように、特にななみんは小説版で彼女の心情が描かれているのだけど、改めて見返してもアニメ本編(特に7〜9話の流れ)だけでその辺の葛藤を汲み取るのは無理でしょう。またファンサイドを描いたことはとてもよいのだけど、不安を持ってWUGを見つめていた大田の心がガチっと掴まれる瞬間がなく、10話で突然MACANAを埋めるほどにファンが増えてて、折角良い設定を用意したのに、大事な過程をすっ飛ばしてしまった。そういった諸々がディテールの甘さだったり薄さだったりって評価になってしまうのです。一方でストーリーの転換点となった第9話は、震災を絡めつつとても丁寧に描かれていて、これだけでもWUGという物語にグッと深みが増したと思っています(ななみんの心情描写が不十分だったことは返す返すも残念ですが)。

 そんな感じで、各論を始めたらきりがないのでここまでにしときますが、総じて、全体としての設定は良かったのに、一つ一つの仕上げが非常に不十分だったということですね。だからこそこれで終わりではなく、今度こそきっちり練り込んで仕上げた作品として、二次元、三次元のWUG7人が成長した姿を再び見たいと思っています。改めてヤマカンさん、よろしく頼むよ。

宇宙戦艦ヤマト2199 ― 「種族を越えた理解」という理想に挑む

宇宙戦艦ヤマト2199 1 [Blu-ray]

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「俺たちは異星人とだって理解し合えるということだ。」
(第24話古代守の台詞より)

 ヤマトが「2199」としてリメイクされるにあたり、総監督の出渕裕は、旧作の矛盾点や設定の甘さに新たな解釈や新規の設定を加えることで、現代のアニオタの視聴に耐えうるものにしようと試みた。しかしそれは、単に旧作を補完するというものではなく、「宇宙戦艦ヤマト」の作品イメージをある意味大きく塗り替えるほど、ストーリーの思想性に深く踏み込んでいくものになっている。

 旧作設定の新解釈の中で、特に重要な意味を持つのが、「二等ガミラス民」という設定だ。この設定が、2199を旧作とは違う作品イメージへと塗り替えていく引き金となっているのである。

 旧作では、冥王星基地に駐留していたシュルツ以下ガミラス兵たちの肌の色が地球人と同じ肌色で、デスラー総統ら本星ガミラス人の青い肌とは異なっていた(実際はデスラーもシュルツが戦死する回までは肌色で、翌週からしれっと青くなったのだけれど…)。出渕はこの設定上の矛盾を、ガミラス人とは異なる被占領星の種族と解釈し直し、「二等ガミラス民」と位置づけることで、星間国家ガミラスが支配種族と被支配種族とに分かれる階級社会であるとの設定を加えたのである。このことによって2199では、物語の早い段階から、ガミラスが必ずしも一枚岩ではないという可能性が示されていた。

 シュルツは第2話での初登場と同時に「我々は失敗するわけにはいかないのだ。」という追い詰められた言葉を吐いている。また本星には妻と娘を残していること、功績を上げれば二等臣民から一等ガミラス民へ引き上げられる可能性があることが、回を追う毎に明らかにされていく。即ち、ザルツ人という設定を加えられたシュルツらは、単に地球を破壊しヤマトの行く手を阻もうとする敵としてではなく、彼らなりに家族を守るため、一等ガミラス民となって差別されない暮らしを得るために戦っているのだという、地球とは異なる側の悲しきドラマが描かれているのである。

 第8話、シュルツ艦の乗組員たちは、恒星の炎に焼かれていくとき、「ザルツ万歳!」と叫び、ガミラスの支配から解放され、自らの種族の誇りと共に散った。だがシュルツだけは、ただ黙って目を閉じ、妻と娘の姿を思い浮かべて散っていく。彼はガミラスやザルツといった国家、種族のためではなく、夫、父として最後の瞬間を終えたのである。本国へ戻る退路を絶たれ、「我らの前に勇士なく、我らの後に勇士なしだ!」と部下に最後の激を飛ばして特攻をかけ散った旧作のシュルツは、いわばどこまでも軍人であった。それに対し2199では、よりプライベートな人間としてのシュルツが表現されていた。

 このように2199は、シュルツたちに「二等ガミラス民」という設定を与えることによって、敵であるガミラス側の物語をより深く人間的に描いていくことを可能にした。旧作ではガミラス側の個々の登場人物たちが抱えるプライベートな事情が描かれることはなく、シュルツにしろドメルにしろ飽くまで軍人であり、その人間性も軍人としての矜持や気高さの表現に留まっていた。それはそれで、戦う者の誇りは敵味方を問わず敬意を払われるべきものだという、旧作原案者西崎義展なりの「普遍的人間性」が描かれていたといえる。だが旧作では最後まで一般市民の姿や、登場人物たちの軍人を離れた姿が描かれることはなかった。

 2199ではシュルツの物語の後、徐々にガミラス本星での一般市民の姿、反体制派の存在なども描かれていき、またドメルでさえも、その個人としての姿が明らかになる。彼は幼い息子を失っていた悲しき父であり、その悲しみを妻と分かち合い生きている夫であった。彼は政治には関心がなく、飽くまで領土防衛に誇りを持って臨む有能な軍人であり、実際に彼が最も活き活きとするのは戦場であった。だがこのような個人としての背景を描くことで、彼が悲しみを振り切るためにどこまでも軍人であろうとする姿が垣間見え、だからこそ彼は最後まで軍人としての矜持を貫き散っていく。軍人として敵であるヤマトをリスペクトする姿は、旧作同様である。旧作と異なるのは、軍人として散っていく夫を思う妻エリーサが存在することだ。彼女が反体制派に身を投じていたのも、夫が絶え間なく戦線へ赴く社会を変えたかったから、と想像してみることも可能であろう。

 再び「二等ガミラス民」という視点に戻ると、シュルツは、ゲールから劣等種族として見下されることを苦々しく感じていたのに対し、かつて仕えていたドメルについては、素直に敬意の念を表し、誇らしき良き思い出として語っている。軍人として通じ合える上官に対しては、種族の違いを越えて尊敬することが出来、またドメルもシュルツの名前を幾度か口にしていたが、そこからは部下としてシュルツを信頼し評価していた様子が伺えた。共に分かち合える土壌があれば、種族や階級といったものが越えられていることが描かれているのである。ドメルが沖田に敬意を表することも、これと通じるものだ。

 この点は既述のとおり、旧作においても、軍人同士の描写に限られながらも表現されている。もちろん軍人以外であるイスカンダルとの関係もあるが、旧作では飽くまで対象はスターシャ一人であり、彼女はいわば絶対善であって、種族間の問題とは意味合いが些か異なる。いずれにせよ旧作ヤマトは、シリーズ続編で更に、デスラーと古代の和解や「ヤマトよ永遠に」での雪とアルフォン等、敵である種族と理解し合うというテーマにより踏み込んでいる。これは原案者西崎の意向か監督松本零士の考えかは分からないが、「種族を越えた理解」というテーマは、旧作ヤマトシリーズの大きな主題の一つであったとはいえよう。旧作でガミラス本星を殲滅したあと、「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった。」と古代に嘆かせたのは、この時点で西崎か松本にそのような思想があったからだろう。とはいえ、それまでにガミラス人に同情するほどの十分な描写はなく、この古代の台詞にはどこか唐突感が否めなかった。全て滅ぼした後に今更何を言ってるのだという、半ば自己陶酔的な欺瞞にさえ聞こえた。だから続編でのデスラーと古代の和解は、この台詞を後から正当化するために作られた設定とも解釈したくなるものであった。

 2199では、この「種族を越えた理解」というテーマは、シュルツたちを感情移入できる「人」としてじっくり描いたことで、物語中盤から明らかに本作の主題となっていく。まずはアナライザーとガミロイド兵「オルタ」という異星A.I.同士の交流という変化球から始まり、そしてメルダがヤマトの捕虜となる話で、地球人とガミラス人が、人として同じメンタリティをもって理解し合える存在であることが示された。最初は「ガミラス人」メルダに憎しみの目を向けていた山本が、メルダと戦い、メルダに救われることによって、憎しみの対象が彼女個人でないことを知る。旧作でも捕虜に対する古代の葛藤シーンがあったが、ガミラス人捕虜自身の個性は殆ど描かれず、憎しみの対象が個人に向けられるものではないという結論は、飽くまで古代個人の内側でのみ自己完結していた。だが山本とメルダは、物語終盤の第22話では、イスカンダル人のユリーシャも含めた3人で、スイーツを食べながら恋話をする仲にまでなっている。この女子会場面は、緊張感が続く中での唐突な息抜きシーンではあったが、ヤマトが最後の決戦に臨む前に、目指す世界はここだと、その理想形が示されたものとも受け取れる。

 更にこれと並行して、「種族を越えた理解」というテーマは、物語終盤に改めて、「二等ガミラス民」のザルツ人を主軸としてクローズアップされる。2199で新たにオリジナルストーリーとして加えられた、第442特務小隊とその一員ノラン・オシェットを巡る話である。

 第442特務小隊は、ドメルによって召集されたザルツ人義勇兵による特務部隊だ。ヤマトがドメル艦隊と交戦する混乱に乗じ、肌の色が地球人と同じであることを利用してヤマト艦内に潜入、イスカンダル人のユリーシャを奪取することが任務であった。

 この「第442特務小隊」とは、米国の「第442連隊戦闘団」をモチーフにしていることは明らかである。この米国第442連隊戦闘団は、第二次大戦中、敵国日本の同族ということで偏見に晒されていた日系人の志願兵によって編成された部隊であり、苛烈な最前線で多くの戦死者を出しながらも、米国への忠誠を示して勇猛に戦ったことで知られている。ザルツ兵の第442特務小隊もまた、劣等種族という偏見に抗し、ガミラスへの忠誠を誓い戦う姿が描かれている。彼らがドメル配下に編入される際、バーガーから受けた偏見の言葉に対して、ノラン・オシェットがガミラス国歌を歌い出して忠誠を示し、ドメル以下ガミラス兵もそれに呼応し全体の士気を高めた。このシーンは、彼らの位置づけをよく象徴していた。

 第442特務小隊は、日本人の視聴者としては、米国日系人部隊の逸話が設定の背景にあることで、ある種感情移入しやすい存在ではある。しかしある国内でマイノリティである民族が、マジョリティの民族社会の中で生きていくためには、少なからずこのように仲間として認めてもらうための努力をしており、それは現代においても変わらない。むしろ国を越えた移動と移住が容易になった現代の方が、このような問題は多くなっているだろう。現代の日本社会でもそのような人々が大勢生活しており、私の職場にも数名いる。彼らは他の日本人社員と同様に働き、私たちと信頼関係を築いている。ザルツ兵の第442特務小隊は、単に歴史上の逸話をモチーフにしているだけでなく、現代社会へ投げかける一つの問題提起にもなっている。

 ヤマトの話に戻ろう。

 ヤマト艦内に潜入した第442特務小隊は、ノラン・オシェットを除き、皆ザルツ人としてのプライドを胸に戦死する。一人生き残ったノランは、ユリーシャと間違えて連れ去ってきた森雪をユリーシャと勘違いしたまま、護衛任務に就いていた。彼らを乗せた次元潜航艦UX-01艦内で目を覚ました雪は、ノランを見て思わず「あなた、ガミラス人なの?」と尋ねる。そのとき彼はキッと雪を睨み返した。中継所となる収容所惑星レプタポーダで、所長のボーゼンに劣等人種と侮辱されたときも、「俺たちだってガミラス人だ!」と強く反発する。ガミラスへ忠誠を立てて任務に就く彼にとって、見た目で差別されることは屈辱でしかない。そのプライドは、第442特務小隊の隊長や、ゲールに苦言を呈したときのシュルツのものと同じであろう。ザルツ人がガミラス臣民として等しく認められることが、彼らの忠誠の動機であり、戦うプライドでもあった。

 だがノランの意識は、雪との交流を通じて少しずつ変化していく。まず雪が彼をボーゼンの暴行から救ってくれたことで、彼女個人への崇敬の念が芽生える。最初はイスカンダル人と思い込んでいたことから、高貴な人の博愛性への敬意と、自分自身に直接手を差し伸べてくれたことに対する喜びと憧れであったかもしれない。ただそのことによって、彼女を守ることが、単に与えられた職務としてではなく、彼個人の内面から動機づけられた使命となっていく。やがて彼女がユリーシャではなく地球人だと気づいても、「僕の任務はあなたをお守りすることです。」と言って、それをリークすることなくそのまま彼女の護衛を続けた。ガミラスへ忠誠を尽くすことと表面上齟齬が生じない限り、ノランは雪個人を守ることを選んでいるのである。そしてヤマトが総統府へ突っ込んだとき、その事情を知らぬままノランは雪に「ここから逃げましょう。」と進言した。ついさっきまでデスラーと同席していた総統府内から自己判断で雪を連れて逃げ出すことは、もはやガミラスへの裏切りの意味を孕んでいた。だからこそ雪もその言葉に「そう言ってくれると思った。」と答え、ドレスの裾を破り捨て、ユリーシャとして演技し続けることを止めたのである。

 とはいえ、この時点のノランの目的は、とにかく危険な状態にある総統府ビルから雪を安全な場所へ連れ出すことであり、デウスーラに乗せられたまま第二バレラスへ移動した後も、外部へ脱出することだけを考えていた。その後雪をヤマトへ送り届けるつもりでいたのかまでは分からない。しかし肝心の雪が真っ直ぐに安全な場所へ逃げようとせず、デウスーラの波動砲制御室に潜入してこれをぶっ潰そうとすることで、彼の行動は行き詰まった。雪は即ち、死を覚悟していたからである。

雪「今までありがとう。もうこれ以上私に付き合う必要はないわ。あなたは早く…」
ノラン「何故あなたはそんなに頑張ろうとするんだ!」
雪「やっと見つけたから」
(古代「やっとわかったよ」)
雪「自分にしか出来ないことを」
(古代「自分がすべきことを」)
(ユリーシャ「それは……」)
ノラン「それは……」
(古代「君を守ることだ!」)

 雪がノランになんと答えたかは分からない。「ヤマトを守ること」、あるいはガミラス人を含め「みんなを守ること」だったかもしれない。しかしそのときノランにもわかった。自分にしか出来ないこと、それは、「雪を守ること」だったのだ。ノランは、波動砲を暴走させるレバーへ手をかけた雪を、銃を突きつけて引き離し、デスラー総統を救うためと詐って、波動砲制御室から追い出した。そして彼女に代わり、彼女の意志を継いで、波動砲を暴走させるのである。彼女を逃す際「これは本物のガミラス人になれるチャンスなんだよ。」と言った言葉は、雪が「ノラン…、あなた、嘘が下手よ…」と涙ながらに言うほどに、ただの方便となっていた。ノランは、ガミラス人としてでもザルツ人としてでもなく、最後は雪という異種族の個人への親愛に殉じたのである。

 このように敵側ガミラスの人間模様が描かれた末に、2199では旧作のようなガミラス本星殲滅という結末はありえなかった。本星へヤマトが突入する場面では、シュルツの娘ヒルデや、ドメルに花束を捧げた少女、ドメルのロクロック鳥と戯れていた少年たち等、それまでに作中に登場していた所謂「無垢な子どもたち」の姿も再び描かれており、旧作のように全てを滅ぼした後に「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった。」という古代の台詞を出すことは不可能なのである。結果として2199のヤマトは、ガミラスを滅ぼすのではなく、救う存在として描かれた。旧作の台詞の思想を継承するために、2199総監督の出渕は、この台詞の場面そのものを消し去り、全く別の結果へと大きく塗り替えたのだ。

 代わってこの旧作の台詞は、地球へ帰還途中のヤマトを急襲し乗り込んできたデスラーへ向かって、雪によって叫ばれた。

雪「地球もガミラスも戦う必要なんてなかったのに。お互いに相手を思い合って、愛し合うことだって!……出来た……はずなのに」

 雪はここに至るまで、ザルツ人であるノランを筆頭に、ガミラス人であるドメル夫人との心を許した会話、そしてイスカンダル人ユリーシャとの友情という異種族との信頼関係を、ヤマトの乗組員の中で最も多く経験していた。ジレル人であるセレステラともガミラス本星で対話をしており、彼女とは信頼関係を築けていなかったものの、ガミラス人でないセレステラが、デスラーに対し単なる主君として以上に心を捧げていることを、雪は感じ取っていた。漂流していたところを救助されヤマト艦内にいたセレステラは、ヤマトへ潜入してきたデスラーに不用意に駆け寄り撃たれてしまった。上記の雪の台詞は、この時、ガミラスで既に顔見知っているデスラーに向けて叫ばれたのである。

 旧作では唐突で空疎な理想主義の感を否めなかった台詞に、2199では積み重ねられた強い思いがこの時注ぎ込まれた。この台詞を真に実感のこもった言葉にすることが、出渕にとって「宇宙戦艦ヤマト」をリメイクする最大の目的だったのではないだろうか。全編を見終えて振り返ると、そう思わざるを得ないほどに、「種族を越えた理解」というグランドテーマを伴って、作品全体がこの雪の台詞に凝縮されているのである。

 2199ではまた、「絶対善」も「絶対悪」も描かれなかった。既述のように、旧作のイスカンダルは、スターシャという一人の「絶対善」として象徴されている。しかし2199では、かつて波動砲の威力をもって大マゼラン銀河を支配した種族であると明かされており、スターシャはその罪を二度と繰り返してはならないという種族の贖罪を、その思想の基礎としている(これは「ヤマトIII」のシャルバートの設定が、イスカンダルに置き換えられたものだろう)。ガミラスもここまで論じてきたとおり、「悪」と一括りには出来ず、最終的には「敵」でさえなくなった。そして何より、地球側でさえ、実は最初に戦端を開いたという「罪」を負っているのである。こうすることで、「罪」も「正義」も種族に依拠するものではないことが示されている。

 では「罪」を生み出すものとは何か?結局のところそれは「思想」であり、遍く銀河の平和というスターシャの「思想」を、自らの手を血で染めてでも武力でもって引き継ごうとしたデスラーの「思想」が、多くの人や星々を不幸にする「罪」となった。旧作ではシリーズ化されていく中で、次々現れる「敵」に「絶対悪」はなかったものの、皆最終的には撃滅される「罪」と「罰」を負わされ、ヤマトやイスカンダルに代わる存在が「正義」を体現する、勧善懲悪のエンターテイメントが希求されていった。一方2199では、誰もが「罪」を背負う(背負いうる)存在であり、過ちを繰り返すまいという意志が、平和への希望へと結び付けられていく。結局「罪」に対する「罰」を受けたのは、スターシャの願いを誤って叶えようとし、「罪」を背負っても尚自分の「思想」に盲目的に進んでしまったデスラーだった。

 大量破壊兵器である波動砲を作り出してしまったこともまた「罪」であり、イスカンダルでヤマトは波動砲発射口を封印し、二度とこれを使わないことを誓う。これにより旧作を踏襲した続編はもはやないと考えていいだろう。完全新作の劇場映画の2014年公開が発表されたが、これが白色彗星編のリメイクで、新戦艦アンドロメダの登場とまでなれば、2199でのヤマトの誓いに泥を塗ることになる。理想は破れ、戦いは幾度でも繰り返され、どんなにきれいな結末にしようとも、それが自己欺瞞に過ぎないものに陥らざるを得ないだろう。旧作ヤマトシリーズが徐々に興醒めていったのも、勧善懲悪エンターテイメントから脱しえず、「正義」の側の自己欺瞞を見透かされてしまった点は否定出来ない。

 ヤマトからブームを継いだガンダムは、その点で最初から連邦軍側の自己欺瞞を明示し、勧善懲悪エンターテイメントに陥らない仕掛けを施していた。自己の正義をぶつけ合えば、最終的にはイデオンのように全員殺してリセットさせるしかないと、富野由悠季は分かっていたのである。

 出渕はそれでも、2199で敢えて理想を物語の最終に持ってきた。但し、旧作のように取って付けたような空疎な言葉としてではなく、各々の種族が持つ「罪」を自覚させた上で波動砲を封印し、物語全編を通じた思いとして雪の言葉に結実させたのである。

 出渕によって再提示されたヤマトの理想は、現実社会を顧みれば、きっとあらゆる場面で裏切られることだろう。だが、「種族を越えた理解」というテーマを丁寧に描き切った上でその理想を裏切るのは、「種族」「民族」といった人それぞれの不可避な属性ではなく、それに囚われたままの個々人の「思想」であり、理想を守るのもまた、人々の「意志」であり「思想」である。2199はその「意志」を強く示した作品として、私は心より評価し、賞賛したい。

 だからこそ本当は続編を作ってもらいたくない。完全新作であっても、正直なところ怖い。それでも作られることになったのならば、ガミラスの再建を中心に据えた物語であってくれたら良いと思う。ヤマトは波動砲を使わず、彼らをちょっと手伝うくらいで。どうか2199で示された理想への意志を貫いた作品にしてほしい。そう願い、公開を待とうと思う。

イアン・カーショー『ヒトラー 権力の本質』

ヒトラー 権力の本質

ヒトラー 権力の本質

内容紹介
ヒトラーと彼を取り巻く政治家や官僚、教会、財界、そして民衆の動向を論じながら、ヒトラーがいかにして権力を獲得し、いかにして「カリスマ」となりえたのかを描きだしていく。

 学生時代はドイツ戦後史、主に西ドイツの50年代をメインに勉強していたので、ナチ時代はその戦後史を知る前提として触れていて、自ずと所謂社会構造史にその関心が偏りがちだった。まあ昔の話なので、今その社会構造史としてのナチ時代についてツッコまれても、知識の引き出しが錆びついててまともに答えることは出来ないのだが、なんにせよヒトラーという個人についてきちんと読んでみたことがなかったので、今更ながら少し彼個人についてかじってみようと思った。とはいっても、ヒトラーのような人物が台頭し権力を掌握したことには、社会的な素地が必要であったことは必然であり、ヒトラー一人の天才性や悪魔性にこの時代を帰してしまうのは、歴史の理解としては正しくない。そのような視点に基づいて、いつかは読まねばと心に積読したまま長年放置していたのがこの本だった。

 著者イアン・カーショーはイギリスを代表するドイツ史家で、基本的には社会構造派に分類される。それゆえ本書もヒトラーという個人史を描くことが主眼ではなく、ヒトラーがどのように権力を獲得し行使したかを、彼を取り巻く諸勢力の動向を通して描いていくものである。だがそのような絡みの中で、ヒトラーという個人の姿も浮かび上がってくることになり、人物としてのヒトラーを知ろうと読み始めた私にとっても、十分その興味に応えてくれた。

 ここでは「カリスマ支配」という言葉がキー概念となる。ヒトラーには扇動家として非凡な才能があったことは確かであろう。ヴァイマール体制に対する不満と社会不安の中で、大衆を煽り魅了する力がヒトラーにはあった。それはまず何より、ナチ党内における彼の絶対的地位と、取り巻き達の彼に対する個人崇拝を築いた。それ自体は彼個人の資質に依拠するものと見做してよいだろう。だがそのヒトラーのカリスマ的存在性は、彼に魅了された者のみならず、彼を軽視し、上手く利用しようとした保守派をも巻き込み、やがてヒトラー自身を離れ、虚像として一人歩きしていくことになる。ヒトラーという個人が持つ権力は肥大化していくが、支配者としてのヒトラーにはその権力を個人として使いこなす資質はなく、ヒトラーという虚像の期待を推し量り応えようと「総統のために働く者たち」によって、合法的支配は崩れ、「カリスマ支配」というものが暴走していくのである。

 このような権力構造を描き出していく本書は、非常に示唆に富み面白いものであった。同時に本書は、上にも書いたように、そのような虚像に対して実際のヒトラー自身はどんな人間であったのか、という点が浮き彫りになる点でも面白い。虚像に対し周りが意を酌んで動いていく原因としては、ヒトラー自身がままならぬ情勢が進むにつれ、徐々に人との接触を避け引き籠っていった、というところがある。つまるところ支配者としてのヒトラーは、自ら決断できない弱い男であったのだ。

 そのような決断力のないヒトラーを表す例として、総力戦の最中に浮上した競馬の施行の是非を巡る問題は、個人的に非常に興味深いものであったが、この点は追って競馬ブログの方で取り上げたいと思う。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を見て

 昨晩「ヱヴァ序」「ヱヴァ破」のBDが届いた(ソラヲトの3巻も届きましたw)。「ヱヴァ序」はレンタルで何度か繰り返し見ていたので、何はともあれ「ヱヴァ破」を早速見る。映画館では2度見たが、10ヶ月振りにBDで見て、改めてこの作品のクォリティの高さと面白さを堪能した。「太陽を盗んだ男」のBGMが流れるシーンでは大スクリーンで見たときの感動を思い出し、21.5インチのPCモニターでは味わえない寂しさを感じたものの、細部まできれいな画質で隅々まで見落としなく見られるのは嬉しい。
 再度見直したことで新たな感想が出てくるかなとは思っていたが、映画館で見たあとじっくり自分の中で解釈していたので、ストーリー自体に対してはそれの再確認という形になった。昨年7月に競馬ブログのほうで書いた感想は、それゆえ特に変わらない。しかし映画館で記憶してきた台詞の表現に若干の違いが当然あったので、BD発売がちょうど良い機会でもあり、それら台詞や誤字、一部言い回しの修正を加えて、こちらの感想ブログへ転載しておく。


------------転載はじめ------------


 ドイツ在住中に上映していたためまだ見ていなかった「ヱヴァ序」を先日漸く鑑賞し、早速「ヱヴァ破」も劇場で見てきた。サクッと言葉にはし難いのだが、思いつくままに考えるところを書いてみたい。

 ネタバレしまくりなので、まだ見てない人は読まないでください。そして少なくとも旧作で色々と思いを巡らした過去のある人は、「ヱヴァ序」を前もって見た上で、是非「ヱヴァ破」を見に行ってください。誰もが手放しで評価できるとはいいませんが、新たに向き合ってみる価値は十分にあります。ただこの感想を含め、「ヱヴァ破」自体の前知識はできるだけ持たずに見に行きましょう。

 では、以下「ヱヴァ破」を見た人だけどうぞ。


 竹熊氏の譬えは実にうまい表現で、「ヱヴァ序」で物語はTV版と平行しながら東京駅を出発した。ただ山手線と京浜東北線という感じではなく、東京駅のホームを地下から東海道線のホームへ移してスタートした横須賀線(新劇場版)と京浜東北線(TV版+EOE)というイメージだ。即ち品川から完全に別方向へ向かうわけではなく、そこで枝分かれしながらも、とりあえず共に、しかし別の位置から多摩川を渡っていく感じである。もっとも「ヱヴァ破」は各駅停車の京浜東北線を引き離し、場面としては早々とアスカ登場のTV版8話から19話まで進んで、もう多摩川を渡ってしまったようだ。ただ3作目以降、横浜で再び合流する保証は全くないが。

「一時的接触を極端に避けるね、君は。」(渚カヲル TV版第24話)

 新作「序」「破」を通じて旧作との最も大きな違いはこの点であり、演出上とても象徴的に描かれている。「序」では、気にはなっていたものの、新作を理解する上での「鍵」というべきものかははっきりしなかった。だが「破」によって決定的になったと言っていい。シンジが自ら積極的に、レイに手を差し伸べ、握り寄せるのである。

 旧作では、シンジが自分から他人に触れる行為は殆ど描かれていない。ミサトに引っ張られたり、アスカに引っぱたかれたり、また過ってレイの上に倒れこんでしまったりするなど、他人との一時的接触がゼロというわけではない。だがミサトやカヲルが差し伸べた手には拒絶や戸惑いの表情を見せ、そこに穏やかな反応はない。例外といえるのは多分3回。1度目は第1話で移動ベッドから転がり落ちたレイに思わず駆け寄り助け起こしたとき。何も分からぬ状況に放り込まれて戸惑う中で、無意識にもあのような行動を起こせたシンジには、潜在的に他人を助けなければいけないという優しさと使命感が備わっていることが示唆されている。だが、あの時はまさに使命感がもたらした接触であり、まだ名前も知らないレイとの心の交流が図られたわけではない。2度目は、アスカに退屈しのぎにキスしようと言われたとき。だがこれも売り言葉に買い言葉から受けたものであり、最終的にはアスカに無理矢理キスされたようなものだ。どちらかといえばアスカの心の隙間が描かれた場面であり、キスの後アスカがすぐにうがいをし接触の痕を洗い落としたことで、シンジにとっても積極的な触れ合いという意味は失われた。

 しかし3度目は、今改めて見返したとき、新作との連続性を感じずにはいられない。劇場版「End of Evangelion / まごころを、君に」、シンジが心象風景における葛藤の中で「みんな死んでしまえばいい。」という思いと共にアスカの首を絞め、始まった人類補完計画。ATフィールドが消え、人と人とを隔てる壁が失われ、人類が一つに溶け合っていく。だがシンジは心の中でレイと問答し、やがて補完が崩れ始める。最後の問いかけのようにシンジの心象風景の中に可視化されたレイは、シンジの上に跨り対峙する。二人の体は腰の上で融合し、レイの両腕はシンジの胸の中に埋まっている。

シンジ「僕は死んだの?」
レイ「いいえ、全てが一つになっているだけ。これがあなたの望んだ世界、そのものよ。」
シンジ「でもこれは違う。違うと思う。」
レイ「他人の存在を今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また他人の恐怖が始まるのよ。」
シンジ「いいんだ。」

 このときシンジは、自分の胸の中に埋まっていたレイの右腕をゆっくり引き抜き、「…ありがとう。」そう言って彼女の手を握った。彼が自ら積極的に手を差し伸べ、他人の手を握った唯一のシーンだ。次の場面では既に二人は別々の体となり、シンジはレイの膝枕に横たわる。そこにカヲルが現れ、シンジにこう問いかける。

カヲル「再びATフィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?」
シンジ「構わない。」

 そしてこれに続く次の対話が、この旧劇場版が最も伝えようとしたメッセージだ。

シンジ「でも、僕の心の中にいる君たちは何?」
レイ「希望なのよ。人は互いに分かり合えるかもしれない、ということの。」
カヲル「好きだ、という言葉と共にね。」
シンジ「だけど、それは見せ掛けなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。…僕を、見捨てるんだ。でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは、本当だと思うから。」
カヲル「現実は知らないところに。夢は現実の中に。」
レイ「そして、真実は心の中にある。」
カヲル「人の心が自分自身の形を作り出しているからね。」
レイ「そして、新たなイメージが、その人の心も体も変えていくわ。イメージの、想像する力が、自分たちの未来を、時の流れを、作り出しているの。」
カヲル「ただ人は、自分自身の意志で動かなければ、何も変わらない。」
レイ「だから、見失った自分は、自分の力で取り戻すの。たとえ自分の言葉を失っても。他人の言葉に取り込まれても。」

 シンジは他人の存在を望み、レイの手を握った。「人は分かり合えるかもしれない」という希望を持って。旧作でシンジは最後の最後に、自分の意思で、辛い現実とも付き合っていく世界を選んだのである。それは何より自分自身を見出す行為でもあった。 TV版ではこの瞬間拍手と歓声が沸き起こり、「おめでとう」の言葉で祝福される。だが劇場版では、一旦人々がLCLの水に還元され溶け流されてしまった後の、シンジとアスカだけが残される赤い地獄のような光景となる。望んだ試みの代償は大きい。しかし死んだように動かなかったアスカがシンジの頬を触れたとき、涙を流しながらシンジは他人(アスカ)がいる現実を改めて受け入れる。アスカが呟いた「気持ち悪い」という言葉と共に。

 旧作の話が長くなってしまったが、しかし新劇場版を見ていく上でこの認識は再度押さえておきたい。東京駅を出発した横須賀線「ヱヴァ序」は、京浜東北線とは線路位置の違いにより多少の景色の差を見せながらも、終盤までほぼ見慣れた印象のまま進む。視聴者が旧作との最初の決定的な違いを見出すのが、ヤシマ作戦を前にエヴァ搭乗を渋るシンジを、ミサトがターミナルドグマへ連れて行き、打ち付けられたリリスを見せるシーンだろう。早くもこの時点でミサトがリリスの存在を知っていたこと自体結構な驚きなのだが、ここで彼女は人類を救うネルフの使命を語り、シンジにエヴァ搭乗を説得する。シンジは「もう一度乗ってみます。」と言ってこれを受け入れる。この間、エレベーターでターミナルドグマへ下るときから、ミサトはシンジの手をずっと握り締めている。旧作で手首を掴んで引っ張っていたのとは異なり、掌を合わせてギュッと握っているのである。このときシンジの気持ちを動かしたのは、使命感だけでなく、身近な他人としてのミサトからの信頼だったのではないかと想像される。

 そして「序」のラストシーン。焼け爛れた零号機のエントリープラグの扉を必死にこじ開け、中にいるレイを救い出そうとするシンジ。無事を確認し、思わず涙する彼に対し、レイが戸惑いならが「ごめんなさい。こんなときどんな顔すればいいのか分からないの。」と呟くと、シンジは微笑んで「笑えばいいと思うよ。」と答える。この彼の笑顔にハッとしたあと、ぎこちなくも救われたように微笑むレイの表情は、TV版でも序盤の最も印象に残るシーンだ。だがこのあと、TV版にないシーンが挿入される。シンジがレイに手を差し伸べ、レイもそれに応えてそっと握り合うのである。一方TV版から削除されたのが、レイが微笑みを返す前に、一瞬ゲンドウの笑顔をシンジに重ね合わせるシーンだ。「ヱヴァ序」ではゲンドウがシンジとの間に介在せず、しかもシンジが差し伸べた手を取ることによって、二人だけの絆が生まれたことが示唆されるのである。

 旧作と平行して始まった新劇場版は、ここで品川駅を出、静かに別の方向へ進み始めたといってよい。だが単なるオリジナル化ではなく、旧作で放たれたメッセージを受けた再出発と捉えるべきだ。即ち、他人を知るまでの物語から、手を握り合うことにより「人は互いに分かり合えるかもしれない」という希望を描く物語へとシフトしているのである。「ヱヴァ破」では更に、手が伝える感覚の意味を表現し始める。

 手を握るという意味では、最初に描かれるのは加持がシンジの手をそっと押さえる「アーッ」なシーンであり、これが既に意図的なパロディであることは読み取れる。ただその直後に切り替わった場面では、シンジが加持の畑作業を手伝うシーンとなる。TV版では加持が如雨露で水をあげているだけなのだが、「破」でシンジは手を土まみれにしてスイカ畑の手入れをしているのである。「何かを作る、何かを育てるっていうのはいいぞ。いろんなことが見えるし分かってくる。」という加持の言葉は、手で直に土に触れさせることによって、シンジによりリアリティを与える。楽しいことだけでなく、辛いことも含めて。

 手が伝える感触によって人物描写が変わっているのはシンジだけではない。レイもまたそうだ。社会科見学でシンジが作ってきたお弁当の味噌汁の美味しさに唸り、学校でも手作り弁当を用意され、レイは初めて「ありがとう」の言葉を発する。これとシンクロする場面はTV版にもある。だが「破」ではこれによってレイが動いた。手料理を覚え始め、シンジとゲンドウを仲良くさせるための食事会を企画するのである。旧作のレイでは考えられないことだ。レイに誘われたゲンドウが彼女の真摯に願う表情に心動かされた場面は、たとえそこにユイの姿を重ね見たとしても、レイに人の温もりを持った意思を見出したのも確かだろう。指に一杯絆創膏を貼り、「どうしたの?その手。」と訊くシンジに、「……ヒミツ。もう少し上手くなったら話す。」とはにかみながら答えるレイ。誰かのために料理を覚えながら増えていく指の絆創膏は、痛みが辛さだけでなく、温もりと喜びの象徴となっていることを表している。「碇君と一緒にいるとぽかぽかする。私も碇君にもぽかぽかしてほしい。碇指令と仲良くなってぽかぽかして欲しい、と思う。」と語るとき、当人は無自覚でも、アスカが見透かしたとおり、「好き」という感情がレイに芽生えたことが明確に表現された。

 アスカもまた、一人で何でもできると思い込んでいた意地が、シンジのお弁当とレイの姿によって氷解し始め、手料理を試み始める。レイほど多くないにしろ指に絆創膏を巻いたアスカは、やはり静かに他人との交流に温もりを覚え始めるのだ。もっともアスカの場合「破」からの登場にも拘らず後半で早々と舞台から消されてしまうから、心の変化を丁寧に描ききれておらず少々残念である。

 そしてクライマックス。アスカ(TV版ではトウジ)を取り込んだままシト化した参号機を、ゲンドウがシンジの意思に反しダミープラグを使って初号機に倒させる。シンジはそれに反発し、「二度とエヴァには乗りません。」と言ってネルフを去る。その直後に襲来したシトとの闘いをシンジに促したのは、TV版では畑に水をやる加持だった。TV版ではその傍らでレイの零号機が自爆覚悟でシトに立ち向かい、やられてしまう。その光景にシンジは「使命感」に駆られ、初号機へと向かう。それはTV版第一話で「逃げちゃダメだ。」と呟きながらエヴァに乗ったときと、実は基本的に変わらない。だが「破」では、彼を直接闘いへと促す人物は登場しない。ただ新キャラのマリが「逃げちゃえばいいのに。ほら、手伝うからさ。」と、ボロボロになった弐号機でシンジを掬い上げ、壊れたシェルターから外へ出すだけだ。しかしその瞬間シンジが見た光景は、シトが零号機を喰らい、レイと同化し始めたところである。このときシンジを初号機へと走らせたのは、単なる「使命感」ではない。レイを救いたいという気持ちだった。それは活動限界で初号機が止まってしまったときに明確に表現される。

 TV版では「動け!動いてよ!今動かなきゃじゃみんな死んじゃうんだ!もうそんなの嫌なんだ!だから動いてよ!」と叫んぶシンジに応えるかのように、突然心臓の鼓動が聞こえ、初号機が再起動する。その後のシンジの描写はなく、初号機は狂ったようにシトを喰らい倒す。シンジとエヴァのシンクロ率は400%となり、闘い後に分かるのが、シンジがエヴァの中に取り込まれてしまったことだ。このときエヴァを動かしたのは、恐らくエヴァに同化していたユイの母性だろうと推察できる。再びシンジを元の体に帰したのが、母の匂いだからだ。

 これに対し、「破」で初号機を再起動させたのはシンジ自身だった。目が赤く光り、彼は叫ぶ。

綾波を、返せっ!」

 ここでなかなか示唆的なのが、シンジとエヴァのシンクロ率が180%だということ。LCLに溶けて姿が失われるほどじゃないということだ。シンジは自分の体と意思を明確に持ちながら、エヴァを動かすのである。目覚めたエヴァに驚愕するリツコらの間から、ミサトがエヴァに向かって叫んだ。

「行きなさい、シンジ君!誰かのためじゃない!あなた自身の願いのために!」

 人類を救うという使命感ではなく、ただレイを救いたいという強い願いだけでエヴァを突き動かすシンジ。

「僕はどうなったっていい。世界がどうなったっていい。だけど綾波は、せめて綾波だけは絶対に助ける!」

 シトのATフィールドを破り、コアの中に分け入ってレイを探す。

シンジ「綾波!どこだ!」
レイ「だめなの……。もう私はここでしか生きられないの。いいの、碇君。私が消えても代わりはいるもの。」

 これはむしろ旧作でのレイの姿である。しかし「違う!綾波綾波しかいない!」と叫んだシンジの言葉にレイは「えっ?」と戸惑い振り返る。

綾波っ!来いっ!」

 旧劇場版の「ここにいてもいいの?」というコピーの「ここ」とは、誰かと共にいていい世界。今レイにとってはシンジと共にある世界であり、彼女は彼の手を掴む。そしてシンジがレイをグッと握り寄せ、抱き寄せた瞬間、シトは消滅した。シンジにとってもレイはかけがえのない他者となったのである。旧作におけるレイは、時に14歳の少女としての心の揺れは描かれたものの、結局は最後までユイの分身であり、シンジにとっては自分が守るべき存在ではなく、自立への導きの象徴であった。だがこの「破」では意思と感情を大きく宿した一人の少女となって、シンジの腕の中に身を委ねるのである。

「人は分かり合えるかもしれない。」「好きだ、という言葉と共にね。」

 このシーンは、まさに旧劇場版が放ったメッセージ、「希望」の表現ではないだろうか。やはり新作は、単なる旧作の焼き直しでも、また旧作を無視したオリジナルでもなく、旧作のメッセージを受けた新たな解釈として見るのが正しいのだろう。

 だが、新作はここで漸く半分が終わったところだ。場面としてはTV版の19話までであっても、実質的にはレイがシンジを庇って自爆した23話まで終わらせてしまったといっていい。24話はカヲルが登場する話で、「破」のエンディングテロップ後にも、カヲルが満を持したように、そしてTV版とは全く違った形で登場する。

「今度こそ君だけは幸せにするよ。」

 このところのエンドレスなハルヒのせいで、「もしかしてこれはカヲルだけが全ての記憶を持っている、旧作とは別のシークエンスという意味なんじゃなかろうか?」なんてことを想像させられたりするわけだが、いずれにせよTV版残り3回分(そのうち2回はEOEとシンクロ)を劇場版2回でやろうというのだから、今納得している解釈だけでこのまま終わるわけもないだろう。

 さて、品川駅を出発し、京浜東北線とは別の位置から多摩川を渡った横須賀線は、恐らく横浜へ向けて進路を戻すことなく、一体どこへ向かって進んでいくことになるのだろうか。新キャラのマリの存在意義も全く描かれてないし、いつ公開になるかはっきりしない 3作目「Q」を待つのはなかなかの苦行となりそうだ。

 つーわけで、当ブログの競馬以外初ネタでした。

------------転載おわり------------

船木亨『メルロ=ポンティ入門』

メルロ=ポンティ入門 (ちくま新書)

メルロ=ポンティ入門 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
われわれはこの世界に生きており、現代の歴史に属している。それにしては、そのことがちっともぴんとこないのはなぜなのだろう。世界や歴史と無関係に、われわれのささやかな人生がここにある。だからといってとるにたらないことなど何ひとつなく、われわれがものごとを考えて決断するときには、やはり歴史の論理のなかを、おなじ世界の他者たちとともに生きるのである。現実的とはどういうことで、真実を語るとはどのような意味か。メルロ=ポンティ哲学をひもときながら、われわれのもとに到来する出来事を真剣に取扱う姿勢について考える、一風変わった入門書。

 なんとなく「目に見えるものとは何か」という現象学的問いが頭を過ったので、瞬間的に「メルロ=ポンティでも齧っとくかなぁ。」と思って、新書で「入門」と書かれたこの本を手に取った。しかし自分の問いは晴れなかったし、メルロ=ポンティについてもよく分からず仕舞いで終わってしまった。ただ単に通勤電車の中で読むにはきつすぎる内容だったというのはある。しかしこの本は、「メルロ=ポンティ入門」というより、むしろメルロ=ポンティの思想を使った船木さんの思想書だともいえる。メルロ=ポンティを理解する目的には、それゆえあまりいい本だとはいえない。とはいえ、時間をとってしっかり集中的に読めば、思想的に楽しめる本ではあるだろう。