「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を見て

 昨晩「ヱヴァ序」「ヱヴァ破」のBDが届いた(ソラヲトの3巻も届きましたw)。「ヱヴァ序」はレンタルで何度か繰り返し見ていたので、何はともあれ「ヱヴァ破」を早速見る。映画館では2度見たが、10ヶ月振りにBDで見て、改めてこの作品のクォリティの高さと面白さを堪能した。「太陽を盗んだ男」のBGMが流れるシーンでは大スクリーンで見たときの感動を思い出し、21.5インチのPCモニターでは味わえない寂しさを感じたものの、細部まできれいな画質で隅々まで見落としなく見られるのは嬉しい。
 再度見直したことで新たな感想が出てくるかなとは思っていたが、映画館で見たあとじっくり自分の中で解釈していたので、ストーリー自体に対してはそれの再確認という形になった。昨年7月に競馬ブログのほうで書いた感想は、それゆえ特に変わらない。しかし映画館で記憶してきた台詞の表現に若干の違いが当然あったので、BD発売がちょうど良い機会でもあり、それら台詞や誤字、一部言い回しの修正を加えて、こちらの感想ブログへ転載しておく。


------------転載はじめ------------


 ドイツ在住中に上映していたためまだ見ていなかった「ヱヴァ序」を先日漸く鑑賞し、早速「ヱヴァ破」も劇場で見てきた。サクッと言葉にはし難いのだが、思いつくままに考えるところを書いてみたい。

 ネタバレしまくりなので、まだ見てない人は読まないでください。そして少なくとも旧作で色々と思いを巡らした過去のある人は、「ヱヴァ序」を前もって見た上で、是非「ヱヴァ破」を見に行ってください。誰もが手放しで評価できるとはいいませんが、新たに向き合ってみる価値は十分にあります。ただこの感想を含め、「ヱヴァ破」自体の前知識はできるだけ持たずに見に行きましょう。

 では、以下「ヱヴァ破」を見た人だけどうぞ。


 竹熊氏の譬えは実にうまい表現で、「ヱヴァ序」で物語はTV版と平行しながら東京駅を出発した。ただ山手線と京浜東北線という感じではなく、東京駅のホームを地下から東海道線のホームへ移してスタートした横須賀線(新劇場版)と京浜東北線(TV版+EOE)というイメージだ。即ち品川から完全に別方向へ向かうわけではなく、そこで枝分かれしながらも、とりあえず共に、しかし別の位置から多摩川を渡っていく感じである。もっとも「ヱヴァ破」は各駅停車の京浜東北線を引き離し、場面としては早々とアスカ登場のTV版8話から19話まで進んで、もう多摩川を渡ってしまったようだ。ただ3作目以降、横浜で再び合流する保証は全くないが。

「一時的接触を極端に避けるね、君は。」(渚カヲル TV版第24話)

 新作「序」「破」を通じて旧作との最も大きな違いはこの点であり、演出上とても象徴的に描かれている。「序」では、気にはなっていたものの、新作を理解する上での「鍵」というべきものかははっきりしなかった。だが「破」によって決定的になったと言っていい。シンジが自ら積極的に、レイに手を差し伸べ、握り寄せるのである。

 旧作では、シンジが自分から他人に触れる行為は殆ど描かれていない。ミサトに引っ張られたり、アスカに引っぱたかれたり、また過ってレイの上に倒れこんでしまったりするなど、他人との一時的接触がゼロというわけではない。だがミサトやカヲルが差し伸べた手には拒絶や戸惑いの表情を見せ、そこに穏やかな反応はない。例外といえるのは多分3回。1度目は第1話で移動ベッドから転がり落ちたレイに思わず駆け寄り助け起こしたとき。何も分からぬ状況に放り込まれて戸惑う中で、無意識にもあのような行動を起こせたシンジには、潜在的に他人を助けなければいけないという優しさと使命感が備わっていることが示唆されている。だが、あの時はまさに使命感がもたらした接触であり、まだ名前も知らないレイとの心の交流が図られたわけではない。2度目は、アスカに退屈しのぎにキスしようと言われたとき。だがこれも売り言葉に買い言葉から受けたものであり、最終的にはアスカに無理矢理キスされたようなものだ。どちらかといえばアスカの心の隙間が描かれた場面であり、キスの後アスカがすぐにうがいをし接触の痕を洗い落としたことで、シンジにとっても積極的な触れ合いという意味は失われた。

 しかし3度目は、今改めて見返したとき、新作との連続性を感じずにはいられない。劇場版「End of Evangelion / まごころを、君に」、シンジが心象風景における葛藤の中で「みんな死んでしまえばいい。」という思いと共にアスカの首を絞め、始まった人類補完計画。ATフィールドが消え、人と人とを隔てる壁が失われ、人類が一つに溶け合っていく。だがシンジは心の中でレイと問答し、やがて補完が崩れ始める。最後の問いかけのようにシンジの心象風景の中に可視化されたレイは、シンジの上に跨り対峙する。二人の体は腰の上で融合し、レイの両腕はシンジの胸の中に埋まっている。

シンジ「僕は死んだの?」
レイ「いいえ、全てが一つになっているだけ。これがあなたの望んだ世界、そのものよ。」
シンジ「でもこれは違う。違うと思う。」
レイ「他人の存在を今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また他人の恐怖が始まるのよ。」
シンジ「いいんだ。」

 このときシンジは、自分の胸の中に埋まっていたレイの右腕をゆっくり引き抜き、「…ありがとう。」そう言って彼女の手を握った。彼が自ら積極的に手を差し伸べ、他人の手を握った唯一のシーンだ。次の場面では既に二人は別々の体となり、シンジはレイの膝枕に横たわる。そこにカヲルが現れ、シンジにこう問いかける。

カヲル「再びATフィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?」
シンジ「構わない。」

 そしてこれに続く次の対話が、この旧劇場版が最も伝えようとしたメッセージだ。

シンジ「でも、僕の心の中にいる君たちは何?」
レイ「希望なのよ。人は互いに分かり合えるかもしれない、ということの。」
カヲル「好きだ、という言葉と共にね。」
シンジ「だけど、それは見せ掛けなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。…僕を、見捨てるんだ。でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは、本当だと思うから。」
カヲル「現実は知らないところに。夢は現実の中に。」
レイ「そして、真実は心の中にある。」
カヲル「人の心が自分自身の形を作り出しているからね。」
レイ「そして、新たなイメージが、その人の心も体も変えていくわ。イメージの、想像する力が、自分たちの未来を、時の流れを、作り出しているの。」
カヲル「ただ人は、自分自身の意志で動かなければ、何も変わらない。」
レイ「だから、見失った自分は、自分の力で取り戻すの。たとえ自分の言葉を失っても。他人の言葉に取り込まれても。」

 シンジは他人の存在を望み、レイの手を握った。「人は分かり合えるかもしれない」という希望を持って。旧作でシンジは最後の最後に、自分の意思で、辛い現実とも付き合っていく世界を選んだのである。それは何より自分自身を見出す行為でもあった。 TV版ではこの瞬間拍手と歓声が沸き起こり、「おめでとう」の言葉で祝福される。だが劇場版では、一旦人々がLCLの水に還元され溶け流されてしまった後の、シンジとアスカだけが残される赤い地獄のような光景となる。望んだ試みの代償は大きい。しかし死んだように動かなかったアスカがシンジの頬を触れたとき、涙を流しながらシンジは他人(アスカ)がいる現実を改めて受け入れる。アスカが呟いた「気持ち悪い」という言葉と共に。

 旧作の話が長くなってしまったが、しかし新劇場版を見ていく上でこの認識は再度押さえておきたい。東京駅を出発した横須賀線「ヱヴァ序」は、京浜東北線とは線路位置の違いにより多少の景色の差を見せながらも、終盤までほぼ見慣れた印象のまま進む。視聴者が旧作との最初の決定的な違いを見出すのが、ヤシマ作戦を前にエヴァ搭乗を渋るシンジを、ミサトがターミナルドグマへ連れて行き、打ち付けられたリリスを見せるシーンだろう。早くもこの時点でミサトがリリスの存在を知っていたこと自体結構な驚きなのだが、ここで彼女は人類を救うネルフの使命を語り、シンジにエヴァ搭乗を説得する。シンジは「もう一度乗ってみます。」と言ってこれを受け入れる。この間、エレベーターでターミナルドグマへ下るときから、ミサトはシンジの手をずっと握り締めている。旧作で手首を掴んで引っ張っていたのとは異なり、掌を合わせてギュッと握っているのである。このときシンジの気持ちを動かしたのは、使命感だけでなく、身近な他人としてのミサトからの信頼だったのではないかと想像される。

 そして「序」のラストシーン。焼け爛れた零号機のエントリープラグの扉を必死にこじ開け、中にいるレイを救い出そうとするシンジ。無事を確認し、思わず涙する彼に対し、レイが戸惑いならが「ごめんなさい。こんなときどんな顔すればいいのか分からないの。」と呟くと、シンジは微笑んで「笑えばいいと思うよ。」と答える。この彼の笑顔にハッとしたあと、ぎこちなくも救われたように微笑むレイの表情は、TV版でも序盤の最も印象に残るシーンだ。だがこのあと、TV版にないシーンが挿入される。シンジがレイに手を差し伸べ、レイもそれに応えてそっと握り合うのである。一方TV版から削除されたのが、レイが微笑みを返す前に、一瞬ゲンドウの笑顔をシンジに重ね合わせるシーンだ。「ヱヴァ序」ではゲンドウがシンジとの間に介在せず、しかもシンジが差し伸べた手を取ることによって、二人だけの絆が生まれたことが示唆されるのである。

 旧作と平行して始まった新劇場版は、ここで品川駅を出、静かに別の方向へ進み始めたといってよい。だが単なるオリジナル化ではなく、旧作で放たれたメッセージを受けた再出発と捉えるべきだ。即ち、他人を知るまでの物語から、手を握り合うことにより「人は互いに分かり合えるかもしれない」という希望を描く物語へとシフトしているのである。「ヱヴァ破」では更に、手が伝える感覚の意味を表現し始める。

 手を握るという意味では、最初に描かれるのは加持がシンジの手をそっと押さえる「アーッ」なシーンであり、これが既に意図的なパロディであることは読み取れる。ただその直後に切り替わった場面では、シンジが加持の畑作業を手伝うシーンとなる。TV版では加持が如雨露で水をあげているだけなのだが、「破」でシンジは手を土まみれにしてスイカ畑の手入れをしているのである。「何かを作る、何かを育てるっていうのはいいぞ。いろんなことが見えるし分かってくる。」という加持の言葉は、手で直に土に触れさせることによって、シンジによりリアリティを与える。楽しいことだけでなく、辛いことも含めて。

 手が伝える感触によって人物描写が変わっているのはシンジだけではない。レイもまたそうだ。社会科見学でシンジが作ってきたお弁当の味噌汁の美味しさに唸り、学校でも手作り弁当を用意され、レイは初めて「ありがとう」の言葉を発する。これとシンクロする場面はTV版にもある。だが「破」ではこれによってレイが動いた。手料理を覚え始め、シンジとゲンドウを仲良くさせるための食事会を企画するのである。旧作のレイでは考えられないことだ。レイに誘われたゲンドウが彼女の真摯に願う表情に心動かされた場面は、たとえそこにユイの姿を重ね見たとしても、レイに人の温もりを持った意思を見出したのも確かだろう。指に一杯絆創膏を貼り、「どうしたの?その手。」と訊くシンジに、「……ヒミツ。もう少し上手くなったら話す。」とはにかみながら答えるレイ。誰かのために料理を覚えながら増えていく指の絆創膏は、痛みが辛さだけでなく、温もりと喜びの象徴となっていることを表している。「碇君と一緒にいるとぽかぽかする。私も碇君にもぽかぽかしてほしい。碇指令と仲良くなってぽかぽかして欲しい、と思う。」と語るとき、当人は無自覚でも、アスカが見透かしたとおり、「好き」という感情がレイに芽生えたことが明確に表現された。

 アスカもまた、一人で何でもできると思い込んでいた意地が、シンジのお弁当とレイの姿によって氷解し始め、手料理を試み始める。レイほど多くないにしろ指に絆創膏を巻いたアスカは、やはり静かに他人との交流に温もりを覚え始めるのだ。もっともアスカの場合「破」からの登場にも拘らず後半で早々と舞台から消されてしまうから、心の変化を丁寧に描ききれておらず少々残念である。

 そしてクライマックス。アスカ(TV版ではトウジ)を取り込んだままシト化した参号機を、ゲンドウがシンジの意思に反しダミープラグを使って初号機に倒させる。シンジはそれに反発し、「二度とエヴァには乗りません。」と言ってネルフを去る。その直後に襲来したシトとの闘いをシンジに促したのは、TV版では畑に水をやる加持だった。TV版ではその傍らでレイの零号機が自爆覚悟でシトに立ち向かい、やられてしまう。その光景にシンジは「使命感」に駆られ、初号機へと向かう。それはTV版第一話で「逃げちゃダメだ。」と呟きながらエヴァに乗ったときと、実は基本的に変わらない。だが「破」では、彼を直接闘いへと促す人物は登場しない。ただ新キャラのマリが「逃げちゃえばいいのに。ほら、手伝うからさ。」と、ボロボロになった弐号機でシンジを掬い上げ、壊れたシェルターから外へ出すだけだ。しかしその瞬間シンジが見た光景は、シトが零号機を喰らい、レイと同化し始めたところである。このときシンジを初号機へと走らせたのは、単なる「使命感」ではない。レイを救いたいという気持ちだった。それは活動限界で初号機が止まってしまったときに明確に表現される。

 TV版では「動け!動いてよ!今動かなきゃじゃみんな死んじゃうんだ!もうそんなの嫌なんだ!だから動いてよ!」と叫んぶシンジに応えるかのように、突然心臓の鼓動が聞こえ、初号機が再起動する。その後のシンジの描写はなく、初号機は狂ったようにシトを喰らい倒す。シンジとエヴァのシンクロ率は400%となり、闘い後に分かるのが、シンジがエヴァの中に取り込まれてしまったことだ。このときエヴァを動かしたのは、恐らくエヴァに同化していたユイの母性だろうと推察できる。再びシンジを元の体に帰したのが、母の匂いだからだ。

 これに対し、「破」で初号機を再起動させたのはシンジ自身だった。目が赤く光り、彼は叫ぶ。

綾波を、返せっ!」

 ここでなかなか示唆的なのが、シンジとエヴァのシンクロ率が180%だということ。LCLに溶けて姿が失われるほどじゃないということだ。シンジは自分の体と意思を明確に持ちながら、エヴァを動かすのである。目覚めたエヴァに驚愕するリツコらの間から、ミサトがエヴァに向かって叫んだ。

「行きなさい、シンジ君!誰かのためじゃない!あなた自身の願いのために!」

 人類を救うという使命感ではなく、ただレイを救いたいという強い願いだけでエヴァを突き動かすシンジ。

「僕はどうなったっていい。世界がどうなったっていい。だけど綾波は、せめて綾波だけは絶対に助ける!」

 シトのATフィールドを破り、コアの中に分け入ってレイを探す。

シンジ「綾波!どこだ!」
レイ「だめなの……。もう私はここでしか生きられないの。いいの、碇君。私が消えても代わりはいるもの。」

 これはむしろ旧作でのレイの姿である。しかし「違う!綾波綾波しかいない!」と叫んだシンジの言葉にレイは「えっ?」と戸惑い振り返る。

綾波っ!来いっ!」

 旧劇場版の「ここにいてもいいの?」というコピーの「ここ」とは、誰かと共にいていい世界。今レイにとってはシンジと共にある世界であり、彼女は彼の手を掴む。そしてシンジがレイをグッと握り寄せ、抱き寄せた瞬間、シトは消滅した。シンジにとってもレイはかけがえのない他者となったのである。旧作におけるレイは、時に14歳の少女としての心の揺れは描かれたものの、結局は最後までユイの分身であり、シンジにとっては自分が守るべき存在ではなく、自立への導きの象徴であった。だがこの「破」では意思と感情を大きく宿した一人の少女となって、シンジの腕の中に身を委ねるのである。

「人は分かり合えるかもしれない。」「好きだ、という言葉と共にね。」

 このシーンは、まさに旧劇場版が放ったメッセージ、「希望」の表現ではないだろうか。やはり新作は、単なる旧作の焼き直しでも、また旧作を無視したオリジナルでもなく、旧作のメッセージを受けた新たな解釈として見るのが正しいのだろう。

 だが、新作はここで漸く半分が終わったところだ。場面としてはTV版の19話までであっても、実質的にはレイがシンジを庇って自爆した23話まで終わらせてしまったといっていい。24話はカヲルが登場する話で、「破」のエンディングテロップ後にも、カヲルが満を持したように、そしてTV版とは全く違った形で登場する。

「今度こそ君だけは幸せにするよ。」

 このところのエンドレスなハルヒのせいで、「もしかしてこれはカヲルだけが全ての記憶を持っている、旧作とは別のシークエンスという意味なんじゃなかろうか?」なんてことを想像させられたりするわけだが、いずれにせよTV版残り3回分(そのうち2回はEOEとシンクロ)を劇場版2回でやろうというのだから、今納得している解釈だけでこのまま終わるわけもないだろう。

 さて、品川駅を出発し、京浜東北線とは別の位置から多摩川を渡った横須賀線は、恐らく横浜へ向けて進路を戻すことなく、一体どこへ向かって進んでいくことになるのだろうか。新キャラのマリの存在意義も全く描かれてないし、いつ公開になるかはっきりしない 3作目「Q」を待つのはなかなかの苦行となりそうだ。

 つーわけで、当ブログの競馬以外初ネタでした。

------------転載おわり------------