「非当事者」による「当事者」の思いとの融合の試み ー 舞台劇『希薄』を観劇して

※この記事は敬称略で書かれてますが、そういうときはむしろいつも以上に敬意をもって書いてます。

 「ナナシノ( )」という俳優グループが企画する舞台劇『希薄』を観劇してきた。きっかけは何ということはない。Wake Up, Girls!吉岡茉祐が出演するということで、この公演を知ったのだ。もっとも、WUGメンバーが出ているからといってなんでも見に行くわけではなく、むしろメンバー単独出演の舞台を見たのはこれが初めて。東日本大震災がテーマということで、なんとなく見てみたいと思ったのである。あれから7年半を経たこの時期に描こうとするものは何なのか、ということになんとなく興味を覚えたのだ。

今思えば、あれを「他人事」と呼ぶのだろう。(『希薄」台本 P.2)

 観劇後に購入した舞台台本(※台本の売上の一部は震災復興支援の寄付金になるそうだ)は、脚本・演出の日野祥太による前書きから始まる。「あの頃、僕は辛い気持ちになった。フリ、をしていただけかもしれない。」と告白する日野は、震災の話に触れて辛い気持ちを抱く自分と、それでも結局いつもの日常を過ごす自分との間に、「他人事」としての居心地の悪さを感じていたのかもしれない。それは彼に限ったことではなく、恐らく津波に直接襲われた、あるいは大事な誰かを失った「当事者」以外の誰もが、心のどこかに感じている居心地の悪さではなかろうか。

 この舞台は、どこまでも「他人事」である「非当事者」が、様々な気持ちや記憶を負う「当事者」の思いに僅かでも融合するための試みなのだと思う。

 ちょっと脱線。「融合」という言葉を使ったのは、H.G.ガダマーの解釈学の概念「地平の融合(Horizontverschmelzung)」を意識しているため。自己の経験、知識、記憶に基づく理解の地平(自分が理解できる範囲)から他者のテキスト(他者が理解する文脈)に向かって自己を投げかけ、その他者との相違の解釈と再投企の繰り返しという循環を通して、自己と他者の理解の地平の融合を図る試みは、この舞台の試みとも重なる。

 公演場所のサンモールスタジオは、折りたたみ椅子による客席数110席程度の小さな劇場で、ステージも小さく、舞台と客席の境もないに等しい距離感だ。舞台は全てブルーシートに覆われており、足元は舞台から地続きの客席3列目まで敷き詰められている(自分はまさに3列目ほぼ中央で観劇)。ブルーシートは客席の側面も覆っており、演者と観客が同じ空間にいるという舞台演出がされている。情景を描く舞台装置は何もないため、劇中に描かれる光景は、海のメタファーであるブルー一色の中から演者と観客一人ひとりの心の中にのみ描かれることになる。即ち、自身の心の中にしかない光景を各々に共有することになるのである。

 公演が始まると同時に鳴り響く緊急地震速報。飛び出してきた主人公・巧は、客席に向かって「皆さん、地震です!地震です!頭を守ってください!早く!早く!」と真剣な顔で叫ぶ。始まったばかりで現実とフィクションとの切り分けがはっきりしていないため、観客側も一応付き合って頭を抱えるべきか迷う。ただ、巧の叫びが徐々に冷静さを失っていくことで、逆に傍観者としての観客の視点を取り戻すことになる。

 主人公・巧は、故郷・大槌町で一度は津波に飲まれ、九死に一生を得ている。今は東京でアルバイトをしつつ、冒頭の地震があるまである劇団の脚本・演出をしていた。だが2ヶ月前のその地震でトラウマが蘇り、筆を取れなくなっていた。

 また作品を書いてほしいと訪ねてきた劇団の女優・弥生に対し、巧は「いやー、逃げだったの、あれは。」と嘯く。震災を描いてきたのは、あれは演劇の中だけの虚構の世界だと言い聞かせるためだったと。しかし久しぶりに強い揺れを感じたとき、これは現実なんだ、だから逃げるのをやめたんだと語る。

 巧はまた、巧の命の恩人であり、西日本豪雨災害の復旧活動から戻る途中に彼を訪ねた自衛官・草一に対し、「(西日本災害を)他人事に感じちゃったんです。」とつぶやく。家族も知り合いもいないテレビの向こうの出来事を他人事と感じ、そんなテレビが流れる店で、酒を飲んで馬鹿笑いしている人々がいる。東日本のときも、みんなそうだったのかなと。

 「当事者」であるがゆえに、自分を襲った出来事から逃げられず、それは「現実」として記憶に貼り付く。だが一方で、ある出来事の「当事者」もまた、別の出来事では「非当事者」となり、その出来事は「他人事」になる。

 観客である私は、「非当事者」としての巧の「他人事」を共有するが、「当事者」である巧の「現実」は共有していない。ただ「非当事者」としての「他人事」を共有することで、巧との理解の地平の接点が生まれる。「非当事者」である自分も、7年半前の「当事者」でありえた可能性があると。

 「非当事者」の自分が「当事者」の「現実」へと自己を投げかけていくには、自己の理解の地平の内側にあるものからアプローチするしかない。この舞台でそのボールとなるのは、人と人との繋がりだ。家族や幼馴染、友人、知人であり、知己の関係性である。

 ただ、巧の東京での恋人・里奈のように、阪神大震災を経験した立場でボランティアとして東北の被災地に自己を投げ入れながら、「非当事者」なまま「当事者」である巧の兄・孝介から暴行され、東北の被災者全体への断絶を心に刻んでしまう人も存在する。孝介は自分が助かりたい一心で横目に映る人々を見捨てながら逃げたにもかかわらず、巧と同様に一度は津波に飲まれて九死に一生を得ていた。だが、巧以外の家族を失い、帰る家も失ったことで、罪悪感に苛まれる人物として描かれる。里奈への暴行も彼の弱さの表れだ。観客である私は、知人にこのような罪を犯した者がいないとしても、人としての「弱さ」を頼りに「当事者」の「現実」へと自己を投げかけていくことになる(もちろん理解することと罪を許すことは全く別物だ)。

 さて、ここまで触れずにいた重要人物がいる。巧の幼馴染であり、本作のヒロインである真理恵だ。実は冒頭の地震のシーンでも巧の傍らに現れ、一緒に客席に向かって呼びかけている。だが、話が進むに連れ、彼女が既にいないことが分かってくる。真理恵は足の悪い母を救おうと巧とともに家へ引き返したため、一緒に津波に飲まれてしまった。手を握っていたはずなのに、巧が海面へ飛び出たとき、その手に真理恵はいなかった。巧のトラウマは彼女を失い、自分だけ助かってしまったことにある。

 真理恵は巧とともに津波に飲まれる「当事者」としての「現実」を共有しながら、巧のその後の人生には存在しない「非当事者」だ。しかし巧の心に刻まれる形で見守り続ける、見えない「当事者」でもある。巧が草一に誘われる形で大槌に戻ったあと、もう帰れる場所ではない町に弟が戻ってしまったことに絶望してか、孝一が自殺する。その報を受けたショックで巧は失明してしまうが、目が見えなくなったことで、巧の前に姿を現す真理恵。二人の会話は恐らくかつて交わされていた日常のままのノリなのであろう。真理恵の妹・未来が、姉が見えぬまま二人の前で、あの日母を見捨ててしまった罪を告白する場面や、真理恵が自分から巧の手を離してしまったことを非難する巧との会話では、客席からすすり泣く声が多かった。巧と真理恵の他愛もないやり取りに、自分と変わらない日常の関係性を感じていたからなのだろう。そこに関わっていたのは自分だったかもしれないという「当事者」性への共感。大切な人を助けられなかった自分、見捨てざるをえなかった自分、助けるために自分を犠牲にした自分。予期せぬ災害は日常の延長線上に起こっていた。あの日大切な誰かを失っていたのは自分かもしれないと。

 とはいえ、ここで感じた「思いの融合」は、やはり日野が感じた「フリ」に過ぎないのかもしれない。自殺する孝介が独白した「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで、俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれた方が嬉しいよ。」という言葉のほうが、理解しやすいのかもしれない。そもそも巧のバイト先の後輩・良巳のように、とことん「非当事者」として振る舞っている方が、自分に嘘がないとも言える。

 しかしそれでも、「非当事者」が自分の理解の地平を「当事者」の思いと融合させようという試みは、人と人との関係性の中で生きていく者にとっては無駄ではないだろう。この試みが観客それぞれの中で成功したかは、各々の内面に委ねられることになるが。

 ここまで演出・脚本の日野祥太の試みを観客の立場で試してみたわけだが、実は最もこの試みに取り組んだのは演者たちに他ならない。巧役の植田恭平は、この舞台に上がるまでどれだけ巧との対話を積み重ねたことだろう。巧の辛さ、悲しみ、苦しみ、そして愛情を全身で演じていた。彼の熱演なくして日野の試みは成立しない。それはもちろん他の演者も同様だ。水原ゆきが演じる真理恵の可憐さ、優しさ、無邪気さ、そして悲しみが、大切な人のまさに「大切さ」を見るものに伝えてくれた。孝介役の宮原奨伍も、突き離してしまうだけではいけない人の弱さへの共感を導き出す難しい演技だったと思う。未来役の吉岡茉祐も、本当は「強い」なんて言われたくない強さと罪悪感との間という難しい感情を、未来に寄り添って演じていた。みなさん、素晴らしかった。

 そして、巧の友人・春人役として、「当事者」と「非当事者」の狭間のようなポジションを演じていた日野祥太には、いずれブログでも構わないので、この舞台での試みに対する自分なりの結果なり感想を読ませていただければ嬉しい。

 最後に一応ワグナーとして。まゆしぃには、孝介から突き離された言葉を投げつけられた「復興支援する芸能人」として、『言の葉 青葉』で「がんばってねと簡単に言えないよ」と歌ってきた一人として、その思いを聞いてみたい。

最高の楽しさと意外性に溢れた「終わりの始まり」 ー Wake Up,Girls! FINAL TOUR -HOME-〜 PART I Start It Up,〜 開幕

 6月15日の解散発表から1ヶ月。7月14日、ファイナルツアーが開幕した。
 敢えて言う。「終わりの始まり」であると。
 来年3月へ向けて、彼女たちはどのようにこの最後の長征の狼煙を上げるのか、一言ではとても言い表せない思いを胸に、私は市原市市民会館へと臨んだ。

 やってくれた。決して予想外とは言わない。きっと明るいステージにしてくるに違いないとは思っていた。しかしその想像を優に越えてきたのだ。
 2ndツアー以降定番となっていた「お約束たいそう」がなく、突然意外な人物のナレーションによるオープニングコール。そしてカーテンが開き、まさに「It's a SHOW TIME!」
 なんということだろう。ずっと成長過程を見てきたつもりなのに、WUGちゃんたちがこんなにも素晴らしきエンターテイナーになっているなんて…。すまぬ。ドイツ語の単語しか出てこない。Wahnsinn...
 もう楽しいなんてもんじゃない。だって、彼女たちは客席にまで飛び出してくるのだから。それもワグナーへの信頼の証で、絶対に混乱を来たさないという客席への自信があるから出来るパフォーマンス。嬉しいじゃないか!
 そしてリーディングライブ。歌を削ってでも見せたかったこの朗読劇は、WUGが歌って踊るアイドルユニットというだけでなく、何よりまず「声優ユニット」だというアイデンティティを示している。しかもそれは、WUGという7人の「声優ユニット」だからこそ出来るアドリブと阿吽の呼吸であり、ベテラン同士が掛け合う手練れの上手さとは違う、仲間としての絆があってこその演技がそこにはあるのだ。
 また、セトリも最後まで意外性の連続だった。定番曲の「7 Girls War」も「Beyond the Bottom」も、5月のグリフェス昼公演で一般投票1位だった「少女交響曲」すらないのだ。今までならトドメの場面で歌われる「タチアガレ!」すら、盛り上がりの勢いの中に滑りこませ、本編はしかし、彼女たち自身が作詞した「Polaris」でしっかりと締める。
 1stツアーの「素人臭くてごめんね!」から4thツアーの「ごめんねばっかり言ってごめんね!」まで続いていた「ごめんね!」シリーズのツアータイトルがなくなり、この日のライブは「もうごめんねなんて言わないよ!」という茶目っ気たっぷりな笑顔と自信に溢れていた。本当にもうみんな最高に素敵なレディーだよ。
 「HOME」と題して始まったこのファイナルツアーは、まさにWUGちゃんとワグナーのホームパーティ。コールの一体感も今までの比じゃなかった。
 だからこそ、最高の楽しさの奥に残るどうしようもない寂しさが拭えない。まだまだこんなにも新しい可能性を見せてくれる7人なのにと…

 しかしまた、だからこそ、敢えて一つ不満点も書いておく。
 衣装替えの間にスクリーンに流れたあのメッセージ。ツイッターを眺めると意外に好意的な声が多いのだが、私にはダメだった。
 あれは一体誰の声なのか?文脈的にWUG7人自身が発したメッセージではない。ワグナーの声を代弁しているつもりなら、みなそれぞれに複雑な気持ちを抱えている中で、勝手に一つの方向に連れいていこうとしないでほしい。運営サイドの声だというのなら、今回ばかりはちゃんと責任者が顔を出して話してほしい。座間と大宮でもあれを流すなら、その間私は目を瞑ることになるだろう。

 この日は、アニサマへの参加決定のサプライズ発表もあった。今年はファイナルツアーに集中したスケジュールになるものと思っていたし、WUGちゃんたち自身も諦めていたようだった。それだけに、発表と同時にまゆしぃは座り込み、よっぴーは泣き出してしまう。WUGとしてあのステージに立つことはもうないと思ってたのだろうから、その感慨はひとしおだろう。平日だし今更チケットを取れるようなイベントではないので私は行けないが、是非ともあの2万人を越すオタクどもに、今最強の7人の姿を見せつけてやってほしい。できれば7人が書いた歌「Polaris」でSSAを一つにしてほしい。

 終わりあるホームパーティが最高の楽しさとともに始まった。公演を重ねるごとに気持ちはきっと複雑に巡ることになるだろう。しかし、それでもきっと最強を塗り替えつつ進むWUGちゃんたちを、最後まで見届ける覚悟は出来た。

WUG解散の発表を受けて…

本日は皆さまへ大切なお知らせがあります。

声優ユニット「Wake Up, Girls!」は、2019年3月をもって解散することとなりました。

 仕事中だった6月15日(金)午後3時、Wake Up, Girls!ファンクラブ「わぐらぶ」からメルマガが届いた。スマホの通知ランプが点滅したままだと気になるので、たいていチラ見だけしてすぐ仕事に戻るのだが、「▼いつも応援してくださっている皆さまへ」という普段と違う書き出しが気になり、そのまま読み進めると、上記の一文に辿り着いた。そこから午後7時の定時まで、正気を維持して仕事をするのが如何に苦痛だったか。
 WUGが解散する
 いつかこの日が来ることは分かっていた。でも今じゃない。まだユニットとしての可能性に満ちている。まだまだこれからじゃないか…!なぜ今なのか?
 頭の中はぐるぐるで整理がつかない。なんとか仕事を終えて退社すると、すぐ帰路につく気にはなれず、近くのコーヒー屋に入ってワグナーたちのツイートを追う。みんな混乱している。当たり前だ。
 タイムラインで、インターネットラジオ番組「Wake Up, Girls!のがんばっぺレディオ!」とニコニコ動画配信の「WUGちゃんねる!」でメンバーからのコメントが特別配信されることを知り、覚悟を決めて帰路につく。正直に言って、聞くのも見るのも怖かった。でも彼女たちの声を聞かねば始まらない。だから帰宅後PCを立ち上げ、覚悟を決めて彼女たちの声を聞き、表情を見た。
 ますます分からなくなる。メンバーそれぞれの言葉で突然の発表を謝り、これまでの感謝を述べ、来年3月まで応援してほしいと語る。でも「なぜ今解散なのか?」がない。
 週末に入り、土曜日は一日何もせずに、ほぼずっとこのことを考えていた。前日の晩のようにワグナーのツイートを追うのも控え、とにかく一人で考えた。
 一つ、半ば確信していることがある。この解散は、おそらくメンバー側から言い出したものではない。なぜなら、彼女たちの声や表情に、この決断を自ら下したという強い意思が感じられないからだ。見えているのは、この運命を受け入れることを決めた、という意思である。
 実は金曜日の晩にいろいろ眺めている中で、一つ引っかかっていることがあった。エイベックス・ピクチャーズのWUG担当プロデューサー田中宏幸氏が同社を辞めていたということだ。調べてみると、今年2月からサイバーエージェントに籍を置いている。
 WUGというと、アニメ作品の原案・前作監督である「生みの親」山本寛氏の名前が兎角話題に上る。しかし彼は飽くまでアニメ制作の責任者であり、声優ユニットに対しては口を挟むこともあっただろうが、そのプロデュース責任者ではない。アニメの版元プロデューサーであり、WUGの所属音楽レーベルDIVE II entertainmentのプロデューサーでもあった田中氏が、いわば声優ユニットWUGの「育ての親」であった。
 彼がなぜエイベックス・ピクチャーズを辞めたのかは問うても仕方がない。サイバーエージェントのほうがよい条件だったなら、個人の人生の選択として誰も責めようがない。いつから辞める話があったか分からないが、アニメ新章が彼のWUGへの置き土産だったのだろう。
 しかし田中氏がアニメにおいても声優ユニットにおいてもWUGの要であったことは事実で、彼が抜け、新章という一つの大きな区切りのあと、WUGというプロジェクト全体のプロデュース体制がゼロから見直されることになったのは想像に難くない。
 つまりその結果として、声優ユニットWUGのプロデュースは終了となったのだろう。
 振り返ればWUGの活動は決して順風満帆ではなかった。それゆえ、新章とそれを受けた5月12日のグリーンリーヴス・フェスは、最後の起死回生の策だったといえる。しかしアニメは制作スケジュール破綻の底質作画という前作とまったく同じ轍を踏み、グリフェスは幕張イベントホールという無謀とも思えるキャパの箱を押さえ、結果スタンド上段席は未使用という、集客力の限界を見せてしまった。フェスの内容には満足してるのだが、シビアにビジネスとしては、あれがとどめになってしまったのかもしれない。WUGのファンは徐々に増えているという実感はあった。だがその地道なペースでの継続を、ビジネスとして打ち切った、そういうことなのだと思う。
 これらはもちろん私の推測に過ぎない。ただ「なぜ今解散なのか?」という点では、一先ず自分を納得させるのに十分な理由だ。本当の答えは、おそらく今後誰からも語られないのだから。
 ただ、土曜のかやたんのブログを読むと、解散が発表される金曜日の朝を迎え、「いよいよこの日が来たなぁ」と思ったことが書かれている。解散がそれなりに前から決まっていたことが分かる。WUGチャンネルでコメントするメンバーの姿にある程度自制が利いていたのは、そのせいだろう。そのかやたんが、最も感情を抑えるのに必死だったのが、痛いほど分かるとしても。
 少なくとも先々週のWUG舞台では、解散が決定していた中で、真正面から役に向き合い演じてみせ、直前木曜日の楽天ラボナイターでは、弾ける笑顔でスタンドを盛り上げて楽天を勝利に導いていたのだろう。もしかしたら、グリフェスの時点でもう分かっていたかもしれない。よっぴーが叫んだ「みんな家族だ!」も、既に分かっていたから込み上げてきた言葉だったのかもしれない。
 グリフェスのときに発表されていたライブツアー。そのタイトルが、解散発表のあと告知された。
 Wake Up, Girls! FINAL TOUR - HOME -
 ズルいじゃないか、「HOME」とか…
 3部構成の最後のサブタイトルは「KADODE」。ワグナーは家族なんだから、7人の門出を祝って送ろうってか。
 でもね、「HOME」とは「帰る場所」ってことなんだから、いつでも戻ってこられるってことなんだよ。
 ホント、WUGちゃん7人はみんな仲良しなんだよね。若い女性が7人集まれば、絶対にあの子とあの子が仲悪いとか、派閥ができてたりするもんだと考えるだろうけど、WUGちゃんたちはそうじゃない。もちろん最初から全員打ち解けあってたとは思わない。よくネタになるまゆしぃとよっぴーの喧嘩だけでなく、1年目にやってた「Wake Up, Radio!」のときなんか、お互いの間合いを計るような気遣いも時々感じられていた。
 でもね、この7人のよいところは、そんな中でも誰かを省いてしまおうという子がいなかったこと、ユニットとしてそれぞれに慮って向き合える子たちだったってことなんだよね。
 ブログやラジオ、イベントでのMCなど、彼女たちの言葉をほぼ毎日、5年近く聞いてきた。7人の中のどの組み合わせでも必ず、プライベートで一緒に遊びに行ったり、夜通し語り合ったり、相談し合った話がある。
 今回もきっと7人でいっぱい悩んで話し合ったことだろう。そんな彼女たちが、解散という運命を受け入れる決意をした。ワグナーとしてはその決意を受け入れるしかない。家族なんだから。
 私はWUGの箱推しだ。この7人だからこそのWUGが大好きだ。同時に7人単推しでもある。だから来年の4月以降も、変わらず一人ひとりを応援する。
 ツアーは、貯金残高眺めると頭を抱えざるをえないのだが(今年5年目のデスクトップPCやスマホ、10年選手の家電類を買い換えようとか考えてたので…)、可能な限り多く参加する。そして来年3月のファイナルでは、「いってらっしゃい」と送れるよう、心の準備をしておきたいと思う。

WUGの物語から多くの物語へ Wake Up, Girls! 新章 ― 最終話「明るいほうへ」

内容(公式サイト 各話あらすじより)
Wake Up, Girls!ツアーファイナル当日。
Vドル・マキナXは複数のスタジアムで、I-1clubはセンターの座を賭けて、
そしてWUGの呼びかけにより各地元アイドルたちが『Wake Up, Idols!』を
合言葉に、全国同時多発ライブが開催される。
ファイナルの前座を務めるRun Girls, Run!の緊張をほぐすため、
WUGメンバーはある行動に出る…!

 各話感想を書くつもりだったのに、11月に入って急遽忙しくなったせいで、筆が止まってしまった。中途半端なタイミングで再開しても上手く書けそうもなかったので、最終話を見終えた上で全体的な感想をば。

 監督の交代、キャラデザの変更、前作からの連続性への不安から、一定の批判的ファン層を抱えて始まったWUG新章。その連続性も踏まえ、新章のストーリーは私にとって「腑に落ちる」終わり方だった。

 もちろんストーリーのディテールについて各話感想を書いていたら、いろいろとツッコミどころはあった。それは前作も同じだが、前作は「もっと他の描き方はあっただろ」「それより他に描くべきところがあっただろ」というツッコミに対し、新章の場合、6話や10話(実質9話)など「もっと他の描き方はあっただろ」はあるが、「描くべきところ」に関しては、丁寧ではなくても、全12話という尺の中では一応やるだけやったかなと思う。

 前作からの連続性という観点で。まずWUGの7人は、それぞれ心の傷や自分への自信のなさ、欠点など抱えつつ、それぞれの「何か」を変えたいと思って集まってきた者同士だ。真夢、藍里の同級生組を除き、互いを知らぬまま集まった7人が、時に露悪的なほどの状況に直面して苦しみ、すれ違い、ぶつかり合いながら、徐々にお互いを知り、ユニットとしての結束を高めていく。

 一方で、軍隊的な規律とトレーニングにより、より精度の高いパフォーマンスでトップに君臨するI-1 Club。人間的な泥臭さという点で、WUGはI-1のアンチテーゼであり、「アイドルである前に人間です」というのが、前作WUGの大きな主題の一つであった。続劇場版でI-1のセンターであり、I-1の申し子のような存在だった岩崎志保を、世代交代を理由に福岡へ「都落ち」させたのは、I-1 Clubというアイドル=偶像の永遠性を維持するためであったが、そんなI-1に、恐らくファン投票を加味した「アイドルの祭典」でWUGが勝ったことで、I-1プロデューサー白木が、そしてその出資者「ダルマの老人」が描いていたその永遠性に綻びが生じる。

 これが前作で描かれた、新章の前提となるアイドル界の状況だ。新章から登場したヴァーチャルアイドル(Vドル)は、アイドルの永遠性を突き詰めた形といえ、ダルマの老人はそちらに乗り換えていく。
(ところで、ヴァーチャルアイドルというと初音ミクを想像するが、このVドルとは明らかに違う。初音ミクは事実上フリー素材として二次創作に開放されたため、ファンによって集合知的に個性を作られていったアイドルだからだ。)

 新章のWUGは、前作から新章開始までに当たる期間を地元仙台に根を下ろすことに集中し、アットホームな環境でユニットとしての仲を深めていた。しかし改めて全国へ打って出るには、前回東京進出で失敗し、やり残してきた宿題に直面することになるが、ユニットという信頼し合えるホームを築いたことで、個々のメンバーが自ら考え、刺激し合いながら個性を伸ばし、またユニットとしての力に還元できるようになる。そこには時に甘えも生じ、それゆえに誤解や喧嘩も起こるけど、それもまた他の誰かの助言や補い合いによって克服できる、真の仲間となっていく。

 また新章ではそれと同時に、WUGの外との影響関係も描かれる。WUGに憧れてアイドルを目指す中学生3人のRun Girls, Run。事務所がなくなって一度は解散したものの、WUGの地道な活動に刺激されて再活動する男鹿なまはげ―ず。真夢とのドラマ共演によって心動かされ、自ら考え選択するアイドルとなる志保。物語性という観点では、新章はWUG7人以上に志保の成長のほうがより印象に残るくらいだ。

 真夢と志保の関係から、吉川愛、七瀬佳乃も繋がり始める。佳乃は真夢の過去にあったI-1という巨人に無意識の壁を持っていたが、愛とライン交換出来る仲になって、その壁が失せていく。愛もまた、自立する真夢と志保、真夢を支えようとする佳乃の姿に刺激され、I-1新キャプテンとして「私たちは私たちに出来ることをやろう」とメンバーを鼓舞するようになる。

「アイドル界を変えるのは、Vドルでも僕でも、あなたでもない。」

 最終話で早坂が白木に語った言葉は、作中に時折描写された過去の早坂自身へ向けた批判でもある。WUGが互いに照らし合うことによって全国のアイドルを巻き込んでいったうねりは、早坂や白木、ひいてはダルマの老人の思惑をも越えて輝き出す。そんな全国のアイドルたちの輝きの前に、白木もまたダルマの老人の軛を断ち切り、一から這い上がるI-1 Clubの育成を覚悟する。新たなアイドルの祭典でI-1のシード枠を撤廃したのはそのためだ。I-1のセンターという地位に最も翻弄され苦しんだ萌歌も、その座を返上し、一から挑戦する覚悟を決める。そこではVドルもまた、個性あるアイドルの一つとなる。

 「This story is only the beginning!」

 最終話の最後に映ったホワイトボードに書かれたこの言葉、WUGが繋がりあったアイドルユニットたちの名前の下にある。WUGの物語は即ち、多くのアイドルたちの物語の序章に過ぎないということだ。新章では、「アイドルである前に人間です」という前作の主題に正面から取り組んだゆえに、WUGだけでない多くの物語の入口を示して最後の幕としたのである。私にとって「腑に落ちた」とはそういうことだ。

 今後続きがあったとしても、WUGが主役ではなく、RGRやその他ユニットのスピンオフになるんじゃないかと思うし、多分それでいい。

 なお、前作は震災復興支援もテーマに掲げていたから、「新章には思想がない」という批判もツイッター等で見かけた。だが第1話冒頭で「2017.03.13」という日付が示されたとおり、あいちゃん(永野愛理)が4thツアーで選んだ数字「313」が意味する、「311」から二歩進み、合計「7」人で新たに歩み出すところから物語が始まっている。だから前作が震災の苦境からタチアガる物語であったのに対し、新章がアイドル自身に集中して、東北から全国の一人ひとりへ明るさを届けていく方向に話をまとめたのは、前作の思想とは何も矛盾していない。

 一応最後に作画について。どう考えてもスケジュールがきつすぎた。その点は前作からまるで学んでない。BDでの描き直しよろしく。 

気持ちの変化が連鎖していく Wake Up, Girls! 新章 ― 第4話「美味しい時はうんめーにゃー!」

内容(公式サイト 各話あらすじより
WUGメンバーがそれぞれ各方面で奮闘する中、ついに真夢にドラマのオファーが。
しかも岩崎志保とのW主演ということで、注目を浴び話題になる。
エキストラ募集の記事を見つけて東京へやってきた歩たちは、
憧れの真夢や志保に会うことができて……

 今回はまず内容について語る前に……
 制作現場が早くもヤバいですな。ある意味前作で鍛えられてるから、作画のヤバさは苦虫噛み潰しながら耐えられるけど、キャラクターの声を入れ間違えちゃダメでしょ。こういうのって、どんな状況から起こるのだろう?脚本上は当然役が決まっており、絵コンテも監督や設定を熟知した演出家が書いてるわけだから、そこで間違うはずはない。声が入れ替わっているところは、未夕と実波の止絵の口パクだけなので、原画か動画担当が口を動かす順番を間違えたのだろうけど、とにかくこれは痛恨のミスだよね。もちろんうっかりミスはどんな職場でもあるものだが、最後のチェックが出来てなかった、あるいは差し替える時間すらなかったのだから深刻だ。現場も分かっちゃいると思うので、円盤化の際の修正と、今後の再発防止はマジでお願い。こういうのに気づいてしまうと、物語に集中できなくなるので。その他にも不自然なくらいの止絵長回しが多くあり、とにかく制作現場がんばってくれ。

 では内容についての感想。

 今回は真夢がメインの話だ。前回、他のメンバーたちが自分なりに個性を活かして現状克服に動き出したのに対し、真夢だけ新たな仕事がなく、自分の「個性」のあり方に悩んでいた。そこに、ドラマのオファーが飛び込んでくる。しかもI-1 Club時代の仲間でありライバルである岩崎志保との、ダブル主演での共演だ。真夢はそのことが引っかかり、少し躊躇するが、メンバーたちに後押しされて、そのオファーを受ける。

 今回の話では、真夢についていくつかのポイントが挙げられる。

 その一つが、真夢がドラマのプロデューサーに、自分にオファーしたのは相手役が志保だからかと尋ねたことだ。元I-1 Clubのセンター同士という話題作りありきのキャスティングなのは、誰の目にも明らかだったが、それを暗黙のうちに受け入れるのではなく、真夢はまずはっきりさせたかったのだろう。自分の現状の価値が「島田真夢」の個性ではなく、世間的にはいまだ「元I-1 Clubセンター」という昔の肩書にあることを、はっきり認識しておきたかったのだ。WUGの他のメンバーたちが、それぞれ自分の弱点を認識し、一歩踏み出したことを見ていて、自分が乗り越えなきゃいけない壁はまずこの肩書だと、真夢は気付いたのである。

 次にドラマの役作りについて。ドラマで演じる役は、明るい元気な体育会系の女の子だ。それに対し真夢は、自分とは全然違うタイプと感じ、役を掴みきれずに悩んでいた。そんな中、束の間のオフの際、未夕と実波にその悩みを打ち明ける。すると二人は、彼女自身が気付いてなかった側面を言い当て、「もっと素直に自分を出しちゃえばいいんじゃないですか」(未夕)とアドバイスした。そのことで真夢は何かに気づく。このシーンは、一見ありがちな演出だけど、メンバーと共同生活していることで、前作では一人で抱え込みがちだった真夢が日常的に悩みを相談できること、そして未夕や実波もそれに対し、自信を持って普通に答えてあげられるという、新章での新たな設定が非常に活きているのである。

 そして続くシーン。ドラマ撮影のある場面で、真夢は度々NGを出す。そのときちょうど脚本家が現場を訪ねてきたので、彼女は思い切って監督と脚本家に自分の考える役のイメージを話した。すると二人はそれに納得し、脚本を修正して撮影。真夢は自分のイメージした役を演じ、周りも納得する仕上がりとなった。恐らくそれまで、脚本が求める役柄をそのまま演じようとしていたのに対し、自分自身を役の中に投げかけ、その役が持つ個性を自ら引き出そうとしたのだ。そのためには脚本の変更を促すくらい、彼女は積極的に自分から動いたのである。ドラマを見た母からも「こんな顔もするのね、とびっくりしました」という驚きとともに嬉しさと期待を込めたメールが届く。前作での険悪な関係から和解へという二人の関係を思うと、真夢の成長が大きく感じられる憎い演出だ。

 私は、この真夢の成長シーンを見て、声優吉岡茉祐とリアルWUGの成長を思わずにはいられない。吉岡茉祐は小説を書くのが趣味で、これまでライブ前の影ナレの脚本を書いたりしていた。真夢が脚本の変更に関わるという形で一歩踏み出した演出には、恐らくこの中の人の特性が意識されていると思える。そして今年の4thライブツアーでは、吉岡、永野愛理を中心に、WUGのメンバー自身がセットリスト等の演出に大きくコミットとしていた。こういったリアルWUGの成長が、今回の真夢の成長に反映されてると感じるのである。

 この第4話では、もう一人意識の変化を感じさせる人物がいる。岩崎志保だ。志保は、かつて真夢がI-1を抜けた後のセンターを担っていたが、前作の続劇場版で萌歌にその地位を明け渡し、白木の指示で博多へ拠点を移して、若いメンバーとともにネクストストームのリーダーとして活躍していた。そんな彼女は、ドラマの演技ではNGを出さず、メディアへの受け答えも卒がなくて、まさに優等生アイドルである。真夢に対しては元々強い対抗心を抱いており、前作を通じて認め合うライバルへと変化する心境が描かれていたが、それでも真夢に負けたくないという気持ちは強い。しかし上述のとおり、役に悩んでいたはずの真夢が、自分の考えを主張し脚本の変更までさせる動きを見せた。これに志保は動揺するのである。

 志保の心理について考えてみたい。かつて真夢は白木に反意を示したことで、追い出されるようにI-1 Clubを辞めている。一方そんな真夢に対し、I-1 Clubのセンターとしてトップに君臨し続けることが、志保にとってアイドルとしてのレゾンデートルだった。そんな彼女もまた博多へと「都落ち」したことで、挑戦者として真夢と対等の気持ちを分かち合うことになるが、新章の彼女がアイドルとして改めて挑戦する形は、求められているものに気づき完璧にこなす、誰からも好感を持たれる優等生の姿だった。だからこそ彼女は、真夢の意見で変更された脚本にもすぐに適応して演じている。実はなおもI-1 Clubの「人気アイドルの心得」、「休まない、愚痴らない、考えない、いつも感謝」が、志保の中に生きているのだろう。だから「考えて」周りを動かした真夢の姿に、動揺せざるを得なかったのだ。そこへ萌歌が怪我をした報が入り、白木より一時I-1復帰が命じられる。自ら考え動く真夢を目の当たりにし、志保が今後どう変わるのか。これもすごく楽しみだ。

 さて最後に。ランガちゃんたちが真夢のドラマのエキストラとして出演し、速志歩が彼女とついに邂逅する。それは一瞬の出来事だったが、中学生女子にとってファンから「私もアイドルになりたい」という気持ちに変わるきっかけとしては、十分すぎるものなのだろう。ランガちゃんの物語も、来週からついに動き出すのだろうか。こちらも楽しみだ。